見出し画像

#10 海部公子という生き方

 石川県加賀市山中温泉の山奥で、ダムに沈む寸前の民家に出会った硲伊之助と海部さん。この家を同じ加賀市内の吸坂(すいさか)町に移築することになるのですが、吸坂町は古九谷と同じ江戸時代初期に「吸坂焼」と呼ばれる焼き物が作られた場所でした。二人は運命的にこの地と出会い、窯を構える覚悟を決めます。多くの職人の助けを借り、九谷焼に絵画表現を模索する日々が始まりました。

経済的に苦しい生活を覚悟して

 東京から石川に移ってくるころは、金銭的にはとても厳しい状況でした。絵描きの生活の厳しさ。何もしようとしなければ悠々自適だったかもしれないけど、色絵磁器のすごさ、日本の美術の中で九谷焼ってすごいんだということに気がついちゃって。何とかしたいと考え始めてから、大変になったと思いますね。窯を持とうとか、石川に移住しようと思ったら大決心が必要でしょ。だから自分が大事にしていた絵を、高岡で展覧会やる時には全部出したんですよね。富山県知事の吉田実さんが全面的に肩入れしてくださったのを糧にして、本当にそれがきっかけになりましたね。

 吉田知事には富山に住むことを誘われました。福井からも誘われました。石川よりも富山や福井の方が硲先生や木下義謙先生を歓迎する雰囲気がありました。吉田知事から「石川に行くなら」と言って、石川県の杉山栄太郎副知事を紹介されたんです。とても面倒見のよい方でした。杉山さんの尽力もあって、硲先生の作品が県立美術館に何点か入りました。

 挿絵はもうやっていませんでした。やっていたら追われますから。人間はそんなに多くのことは出来ません。だから結構絵を手放さなきゃならなくてね。手放すにしても高く買ってくれる人がいるとか、コレクターがいるとか、そういう状態じゃないから探さないといけませんでした。画商が入ると嫌な気持ちになったりしますから、できるだけ自力でね。今となっては全部それが勉強になっています。人間社会はなかなか一筋縄ではいかない。なるべく先生をフォローできるような立場になりたいという思いがありましたから、私もできることは何でもやろうみたいな気持ちでいましたね。

 先生の指示で慶応の同窓生で外務大臣をやった藤山愛一郎さんのところにフランス人画家オノレ・ドーミエの版画を持っていって、交渉したこともありました。吸坂窯を見に行きたいと言ってましたね。一生懸命応援してくれました。ホテルニュージャパンの社長をしていて、一室を借りきって事務所にしていました。「ぜひそういう大事業は成功してもらいたいから、相談に乗らせてほしい」と言ってくださいました。先生が持ってた作品はほとんどその頃に手放したんです。だから先生の死後に、ここで美術館やろうという時は作品がほとんどなかったんです。

画像1

途方もない荒れ地を開拓した

 当時この吸坂の土地はマムシとムカデとスズメバチの巣で、箸にも棒にも引っ掛からないような場所でした。真ん中に肥だめを埋めたような場所があって、うっかり足を突っ込むと大変なことになるようなね、草っ原になってて。背の丈以上のクマザサに覆われたやぶだったんです。誰も見向きもしないような土地で、「あんなところに行って」というように洋画家の中村琢二さんに言われたりしました。そんな土地だったからこそ、格安で、当時のお金でも200万か300万もなかったんじゃないかな。ただ登記簿がないから登記するまでが大変だったの。銀行からお金を借りないと切り開けないような状況だったので、登記書面が必要ってこともありましたし、土地のことでごたごたしそうな感じが随分ありました。15人くらいがこの土地を持ってたんですよ。我谷村の家を見つけて、どこに建てるのかという問題もありました。だから土地を手に入れるのと、この家の移築は同時進行でしたね。

 登記書面がないと銀行から借り入れできないので、元都庁職員で土地取引に詳しい菊地淳さんという人がこの土地について調べ、登記書面ができるまでの数年間、吸坂に通い続けて、達成してくれました。菊地さんを紹介してくれたのが、「青柳」という和菓子やを東京で何軒も持っていた篠崎常二さんという人です。とても絵画に造詣が深い人でした。

 吸坂に来ることになったのは不思議なご縁でした。小松のかまや旅館に滞在して陶芸の仕事をしてる時に訪ねてきた人が二人いました。一人は蓮台寺の大工の棟梁で、蓮井敏信さんという人。素晴らしい人でした。もう一人は東野清二さんという、加賀市勅使町で生地つくりの工房をやってる人でした。この東野さんが訪ねてきて、私も同席していたのですが、「先生、こんなものを持ってるんだけど」と言って古備前にそっくりな茶入れを見せてくれました。先生が「これいいね、どうしたの?」って聞いたら、東野さんが「ぼくが昔作ったんです。吸坂の土でつくったんですよ」と言うから先生がびっくりしたんです。

吸坂焼との運命的な出会い

 先生は「ぼくはずっと吸坂という場所を探してたんだよ」と。古い吸坂手の焼き物はとってもいい物があって、行ってみたかったんだと。誰かに案内されて行ってみたら、全然吸坂じゃなかったということもあったようです。そしたら東野さんが「私がいつでも案内します」と言ってくれました。それから間もなく、ここに案内されたんです。もうすぐ冬に入るという時期でしたが、先生が「本当にここの土で焼けるのかやってみたい」と言うと、東野さんが「いくらでもぼくの工房で手伝うのでやりましょう」と言ってくれました。それでここに何回か袋に土を取りに来て、東野さんの工房で習作をやりました。この周辺は古墳時代から焼き物を焼くための良質な土が取れる場所だったようですね。

 そしてなかなかいいものが焼けました。吸坂の粘土で作った生地の、まだ乾ききらない時に磁器を埋め込んで焼くとぴしっとはまるんです。先生がとても興味を持って、そうした象嵌の仕事もしましたね。東野さんの工房には毎日行って、ほとんどそこで生活しているような感じでした。一緒にご飯食べたり、いろり端でね。親父さんと一緒に働いていた南さんという職人がいたんですが、たばこが好きで、硲先生がキャメルとか外国のたばこの袋を見せると珍しがって。硲先生が南さんにあげるといって、東京でたばこをお土産に持ってきてあげたり。行くと大歓迎してくれて、仕事を一生懸命に手伝ってくれました。

画像2

 (吸坂焼の花器)

 その頃の窯は薪窯ですから、サヤ詰めといって、陶器でできた輪っかのような容器(サヤ)に生地を糸ですくい上げて入れる作業とか、生地がサヤにくっつかないように高台にアルミナの粉をふのりで溶いたものを塗る作業とか、絵を描いたものにサビなんかが掛からないようにろう止めしてドボーッとサビ薬に付けてちゃんと始末をする作業とか、ちょっとでも手を抜くとそのまんま焼き上がって来ちゃうから、全く気が抜けない作業なの。それを私もずっと手伝わせてもらって、喜んで受け入れてくれました。行くのが楽しくて。窯を焚くときは何日間もかかりきりですからね。生地を作るのって大変なんだと身をもって体験させてもらいました。

 小松のかまや旅館に泊まってやっていた時は田中久さんのところで本窯の仕事をやらせてもらいました。職人たちも含め、何もかもオープンな生活で面白かったですね。先生は東京にいた時から、靴は最上級のものを二足買うんです。それを生涯履くというくらいの気構えで大事にしていて、東京タワーのすぐ下の巴町といったかな、一畳くらいの間口のお店の奥の直し場で、おじいさんが靴裏の革を打つ横に座り込んで、ある時は和菓子、ある時はお酒の瓶を持って行って、しばらくしゃべり込むのよね。そのわきで見てると、ほんとにいいやりとりなんですよね。

 だから仕事を大事にしている人たちへのまなざしが伝わってきました。革の手袋なんかもとっても大事にしてたの。シカのなめし革の手袋だったんだけど、普通のクリーニング屋に出すとゴワゴワになっちゃうから、わざわざ麴町のうぶかたクリーニングっていうところに持って行ったのを私が取りに行ったりしてね。そばにはお豆腐屋さんもあって、夫婦が朝2時か3時から仕込みをやって、その日に売り切れる量だけ作って。ほんとにささやかな生活で、その中で喜びを見いだしている人たち。いいなーと思いましたよ。先生のような理解者がいるのはどんなに励みになるのかな、と感じていました。そういう人たちが生地づくりの現場にはたくさんいました。

陶石を探して山を歩いた

 陶石は山中温泉の真砂(まなご)にも探しに行きました。徳田八十吉さんの生地を作っていた宮崎さんという人がいて、生地づくりの名人でした。宮崎さんの生地で作った作品は今でも大事にしています。宮崎さんは休みの日には自分でリュックしょって長靴はいて、川の中を流れてくる石を探しては拾って、それを砕いて粘土にしていました。大変な苦労ですよ。そして釉薬も作ってるわけです。徳田八十吉さんが人間国宝になった陰には宮崎さんの存在と働きなしにはない。それがもっと生きてる時に評価されたら跡継ぎもできたと思いますが、非常に貧しい生活でした。お父さんが亡くなってから息子さんがうちに来てくれて「父の生地を使って下さい」と言って、大皿をつくる大きな石膏型をくださったの。それをうちで取り組んだのはいいけど、あれは往生しましたね。それで生地を作るのに一年くらいかかりました。もちろん我々だけでやったんじゃなくて、田中久さんのところに長年勤めていた大皿づくりの名人とか、木田さんというロクロ師も出入りして型打ちの作業をやってくれたりして。その絵付けしたものが石川県美術館に入っています。「蓑掛島之景」(1971年)。あれは真砂の陶石です。

http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/collection/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=2550

 本当に骨を折った作品で、先生も張り切っていました。最初に染付で上がってきた時に、先生が一枚を持って喜んで駆け込んできたんですよ。それで転んで額を12針縫う大けがをしたんです。その一枚です。一番出来のいいのが破片になっちゃったんだけど、あと2~3枚焼いたので、そのうちの一枚が杉山栄太郎副知事のお世話で石川県立美術館に入りました。伊豆に毎日写生に行って描いた作品です。(続く)

画像3

(真砂の陶石で作った大皿)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?