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#7 海部公子という生き方

 20歳の時、海部さんは東京・多摩川沿いの家で硲伊之助と一緒に暮らし始めます。当時、硲は64歳。どんな思いが、海部さんに硲とともに生きる道を選ばせたのでしょう。そこには硲に掛けられたある言葉、そして互いに惹かれ合う男女の気持ちがあったようです。(トップ写真は1961年、当時22歳。硲伊之助〈右〉と岡山・天満屋にて)

 酒場の仕事を心配されて

 硲先生について行こうと思ったのは私が20歳の時です。私は夕方から仕事を始めて夜通し立って人の相手して、お酒が入って男の人がからんでくるような生活をしていたでしょ。そういう面を先生が心配したのかもしれないけど、第一にアルコールで体を壊すんじゃないかって心配してくれていました。「自分(硲先生)は海外から日本に帰ってくる度に歯の治療なんかで苦労したから、若い時は目や歯にうんと注意した方が良い」と忠告してくれました。「若いエネルギーが余ってる時に、そういう仕事はもったいない」と言われました。

 だから他の生きる道を、先生は考えていたようですね。でも自分の方に都合よく引っ張んのは警戒してるみたいで、とても自制的、抑制的でしたね。私が「これは絶対やる」って言ったら、新橋で店を始める時も先生は反対しないで、何かできることはないかと思ってくれたみたいです。お酒が飲めないのでお客になるわけにいかないし、だけどお店の名前をどうしようかと考えてたら「これどう?」と提案してくれたり。「それいいな」と思って採用したりして、だんだんと先生と対等な人間関係みたいな面も育ちました。

 新橋のお店の名前は「ぶれ」と付けました。フランス語に「ヴレマン」という言葉があるんですが、先生は「真実」とか「本当」とかそういう意味を込めたようでした。あともっと単純に「ブレ」というフランス語があって、「麦の穂」という意味なんです。横文字じゃなくて平仮名の「ぶれ」です。そうしたらちょっと面白いじゃない。どういう意味なの?って。「ぶれてるの?」とか(笑)。

 高円寺では人の店を預かって雇われマダムみたいのをやってたんだけど、その店は「凡」(ぼん)って自分で付けました。何のお店でもないところを改造して、私が自分で仕切って始めたから。おでん屋を辞めざるを得なくなって、仕事なくなっちゃうし、さりとてどうしようっていう直近の目的があったわけじゃないし、英語塾に通おうと思ったり考えはしたけれど。でも食べていかなきゃいけないからね、それも人に頼らないでやっていきたかったから。それで始めたんです。結構これは苦労しましたね。高円寺も新橋も一年足らずです。立ち飲みのお店です。

「努力できることが才能」

 麻布に弟と住んでいて、そこに石膏を置いてちょっと絵を描いたりしてましたね。先生がたまに来て見てくれたり。私は「絵をやっていけるんだろうか」という疑問があったんだけど、先生が「人間はやる気なら、努力できることが才能だ」って言ってくれたことが、一番大きな言葉だったな。16歳で知り合ってすぐのころに言われました。先生に出会ってから「学校に行かなきゃ」っていう気持ちが消えちゃったんです。なんだか行かなきゃいけないような気持ちがあったんだけど、行かなくても生きていける道があるんじゃないかと思うようになったんです。

 というか迷ったね、それから随分。自分に才能があるか分からないわけだし、そのままの疑問を先生にぶつけていったんです。「絵を描いて生きていくってどういうことなんだろう」って。そして「才能がないとやっていけないと思うけど、才能って何ですか?」とかね。いろいろ聞いたと思うの。そのときに言下に「ぼくは才能なんて振り回されるもんじゃないと思う」と。「努力できることが才能だと、ぼくは思う」とはっきり言ったのよ。「あっ」と目からうろこが落ちるみたいな言葉だった。もしかして私には才能なんかないかもしれない。でも努力することならできるんじゃないかなって。そのくらいの気持ちでしたね。それはすごく大きな自分への示唆だったし。がむしゃらに人を蹴飛ばしてまで優秀な成績でどっか目指すところまで行かなきゃとかね、そういう気持ちを持たないで済んじゃった。

 もともと競争意識がないところに拍車がかかったような感じです。おでん屋やって生きていくにしても、人に頼ったり、人のお金盗んだり、踏み倒してどうかしようとか、男の人を利用して金もうけしようとか、そういうんじゃなくて、自分で働いて生きてる、何が悪いのさっていう開き直りみたいのがありました。だから強気で、全然平気でしたね。語学くらいはマスターしたいとういのはあったけど、海外の生をを知りたいとか。そういうのはあって、知らないよりは知ってた方が良いし、できないよりはできた方がいいなというのはあって、ちょいちょいやりかけてはいましたけど、いずれも成就させることなく、成就する必要性も感じなくなって今日まで来てしまいました。

マティスと同じ、ひたすら努力の人

 今思うと、ほんっとに先生は努力の人でしたね。マティスがまたそうなの。あらゆる苦労をはねのけて、絵一筋に自分の人生を焼き付けた二人だと思いますね。それが全く理解されていないと思いますね。マティスと硲先生は愛を呼ぶ魂だったんじゃないでしょうか。マティスは日本人の中で硲先生を一番気に入っていたんじゃないでしょうか。硲先生の方もマティスのことを敬意を表さずに話すことはなかった。「マティス先生、マティス先生」って言って。自分にとっては唯一師匠と思えた生身の人間でしたね。自分が受け止めた素晴らしさを、何とか日本人に伝えたいっていうのがありました。

 それはゴッホについても同じです。ゴッホの手紙を読んで、ゴッホの絵から感じたものが手紙に凝縮されているのを感じて、これは翻訳して日本人に知らせる必要があると思ったのよね。それを「絶対君がやる仕事だ」と言って励ましたのが、「火山灰地」などの作品がある久保栄(1900~58)という劇作家です。この人は硲先生と無二の親友だったんです。この人は自殺したんですけど、硲先生はそれが分かったときに泣きながら家から帰ってきたらしいです。

 硲先生の生涯の友達と言える人はほかに岸田國士(劇作家、1890~1954)がいました。文学座の創始者です。岸田衿子さん、今日子さんの父親です。その縁で今日子さんとは随分親しくさせていただきました。(硲伊之助)美術館を開館した翌年にここで講演をしてもらったりね。お父さんと硲先生はとても親しくて、全集の装丁をやっているし、画論も闘わせる相手でした。久保栄とはもっと実感的に一体感を持てたくらい絵に関する共鳴はあったようです。ゴッホの手紙の翻訳をどうしようって迷ってたときに、久保栄がどーんと押したらしいです。「君以外にやる人間いないよ」って。それで岩波につないでくれたと言っていましたね。

 ゴッホが1890年に亡くなってから20年後に出た「白樺」(1910~23)という文芸・美術雑誌があります。それの創刊号でゴッホが取り上げられ、それを硲先生は色刷りで見たらしいです。だから黒田清輝(1866~1924、白馬会創始者)がフランスから帰ってきて、洋画界のボス的な存在だったらしいんだけど、そういう一派に対して新しい風を起こしたのが岸田劉生や斎藤与里らの「ヒューザン会」。そこに硲先生は最年少の16歳で参加したんですよね。そのときにはもう天才少年現れると騒がれたらしいですね。

 ヒューザン会は岸田劉生と斎藤与里が大げんかして二回で終わっちゃうの。でも存在意義があったのね。最初の展覧会の会場は盛り上がって盛り上がって。海外から輸入された美術や文芸の世界最先端情報が載るようになって、みんなそれに刺激されて議論沸騰の毎日で、その熱が今でもそういう古い雑誌を見ると伝わってきますよ。硲先生はそのヒューザン会の事務局で、白樺に載ったゴッホの絵を見たと言っていました。

 そういうことが最初で、自分がやろうとしている絵と何と違うんだろうと思ったらしい。その刺激を受けたような絵を萬鉄五郎(1885~1927、洋画家)らが描いていましたね。同時期に活躍した絵描きで、死ぬまで仲良くしていたのが小林徳三郎(1884~1949)です。萬鉄五郎たちと一緒にヒューザン会のメンバーです。硲伊之助より13くらい年上ですが、最も仲良くしていた絵描きですね。質実な歩みで、本物を追求した絵描きとして、亡くなるまで尊敬の念で語っていました。

 それから佐分真(さぶり・まこと、1898~1936、洋画家)です。数年前に一宮で回顧展をやっていました。それは先生が言うだけあって、すばらしい内容でした。ですが自殺してしまうんです。とってもできる人は、この世で生き延びるということがいかに大変かということを考えさせられますね。特に絵の才能に恵まれた人が自分を貫こうとしたときにどんなに障害にぶつかるかね。絵なんかやりたいって言うと、親がやめなさいっていうのはよく分かる気がする。

 この当時の絵にかける情熱はすごいものがありましたね。今の日本はぺちゃんこですよ。何をどこを見てついていったらいいのか、どこを指標にしたらいいのか、分からない人ばかり。専門家ほど分かんないの。ひどい状態ですよ。

 絵で生きていけるのかという悩みというか、そこまで深刻には捉えていなかった気がします。そこまで生に執着していなかったというか、死にたいっていう気持ちは分かる気がする。そんな不幸でなくても、生きていたくないみたいな気持ち。そういうのがあったような気がする。だから開き直れたというか。それがどんなに分かろうとする親がいたとしても、言いたくなかっただろうし、言えなかったと思う。心配かけまいとすればなおさらね。

 硲先生にほかのことよりは、自分を助けてくれる方がいいと思う、というようなことを言われたことがありますね。他の人と生活考えるより、結婚のことも多少ありましたし。熱心な求婚者が2,3人いたりして、勝手に私の親の家に行っちゃったりしてね。東京工業大学のあるクラスの半分以上がうちのおでん屋のファンで、その中の何人かが一緒にやっていかないか、結婚してくれないかと。山形から親が訪ねて来ちゃったりしてね。迫られるところもあったんですよね。

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(1959年1月、20歳のころ。父・忠美〈右〉、叔父・穀定〈左〉と、丹後・天橋立にて)

「私には好きな人がいる」

 硲先生と直接一緒に暮らす動機は、叔父がからんでるかな。叔父が長男の連れ合いになってくれないかっていうのを言葉に出して、叔父と叔母がせめたててきたんです。それで「私には好きな人がいる」って言っちゃったんです。それで「誰だ」って言うから「歳が離れてるけど、結婚してもいいと思ってる」って言っちゃったのよ。それで硲先生のことを言ったんです。

 硲先生には恋愛感情はあったような気がするね。男性としてもいいなっていうか、女性に対して権威的な態度じゃなかったし、魅力的な人でしたから。私は大柄な人が嫌いで、体格が良くて筋骨隆々は好きではなくて、どちらかというとやせ形で貧相で、コロンボタイプというか古いコートが似合うようなうらびれた感じが好きなんです(笑)。そういうのもあって。先生をかわいそうに思ったっていうのもある。誤解されてるんじゃないかって。こんなにいい人なのに、何で幸せそうじゃないんだろうと思ったりして。先生が私と会うのをすごく喜んでくれて、うれしそうにしてくれるの。私は人を喜ばせたいというのがすごくあったし、信頼されるうれしさみたいな、先生に信頼されたいというのがあったと思うの。いろんな感情がからんでますね。それで何かそっちの方に押し出されていくみたいな。

 その時期に且原純夫と弘子が結婚したばかりで、相談しにいったんです。且原純夫は中野重治の弟子で新日本文学の編集者。篠田銘木店の「木」っていう雑誌の編集をやっていた人です。そしたら弘子さんが「それは絶対先生と共存すべきだ」って言いました。でも硲先生は「自分は結婚できない」って言うんです。1928(昭和3)年にフランス人女性と結婚していて、重婚になるから。奥さんとはいっても何十年も離れていて何の関係もないし、法的には離婚も成立しているらしいんだけど、向こうの強引な手続きで新しい戸籍にまたくっつけられちゃったそうなんです。先生が本当に一緒になりたかった恋人の女性は36歳で亡くなってしまうんですよ。ここに絵もたくさん描いてありますけど、あの人が最愛の人なの。歌手を目指して勉強してた人です。その女性から激しく求婚されたんですけど、フランス人の妻が絶対に離婚しないって言い張ったんで、結婚できなかったんです。

結婚できないなら弟子になるしかない 

 それと同じような理由で「あなたとは結婚できない。自分は重婚罪になる」と言って、「今のまま、迷惑を掛けずにいきたい」と。だから私は結婚する座席がないなら、弟子になるよりしょうがないという、ごく自然ないきさつですよね。弟子になってくれと言われたわけではありません。押しかけ弟子ですね。「一緒にやってくれれば助かる」という感じでね。その時々の成り行きで、先生と一緒にやることがいっぱい出てきちゃったのよね。車の運転を覚えたら、私が運転手の役をやれば良いんじゃないかとか。やれることは何でもやろうという気持ちがあったから、生きられたと思いますね。

 その気持ちに感動してくれたというか、今どきこんなのがいるかと思ったのかもしれないけど、自分の都合よりも先生が何を望んでいるのか、どういう風に生きていきたいのかを聞き取ろうと思って、一生懸命でしたね。それに沿うように生きてきたら、いつの間にかここに来ちゃってた。それは私はどこで終えても納得という気持ちがあったので、挫折感はあんまりなかったです。だって自分で覚悟して目指したんだから。親のせいにも誰のせいにもできない、自分のせいですよね。自分で決断して自分で決めたことですから。すごい納得の瞬間瞬間の積み重ねが今に至るという感じですね。

先生がつくる物は、私たちもつくる物

 先生がつくりたい物に沿って、日常の生活が動いてた。だから先生がつくりたい物を何一つ隠さず、一日の始まりから終わりまで制作が生活の中心でした。だから先生がつくる物は私たちもつくる物、一緒につくってる物という感じだった。それくらい濃密な関係というか、切り離せない関わりですね。よかったですよ。

 私自身は作家になるというような気持ちはなかったですね。先生はそっちの方に押しやろうとしていたようだったし、周りもそんな目で見ていたようですけど、私自身はそんなところに深い関心はなかったです。自分から求めていったことはないですね。先生がつくりたい物が私たちがやりたいことでした。だから窯たきでも何でも、私たちが一緒にやらなければ生まれてない作品だという気持ちがあるので、だから先生のまずいところは私たちのまずいところにもなるわけだし(笑)。弟子がよくないと師匠はいい存在にはなれないと思いますね(笑)。一人でこれだけの重労働はできないですよ。分業の仕事ですよ。だから末端で手助けしてくれる人も気持ち良くお茶を飲んで対話して、次にまた会えるというのは素晴らしい関係だと思いますね。そういう人に囲まれているんですよね、おかげさまで。

 絵とも確実につながってますね。誰が言ったのか思い出せないけど、「芸術、表現の目的は市民生活の向上のためだ」という言葉があります。そう自覚を持ってる者が芸術家であり、文化に携わる者の使命だと思います。そういう言葉はしみついています。技術は一人で独占するものではなく、共有するものです。だから共存共栄の目的をいち早く先取りして生きた民族がこの地上にいるということ。これは私自身が自分で到達したというか、把握した現実感なんだけど、それが古九谷とか、先生が突き止めた多色刷り木版画の共同生活ですね。一つの作品を共同でつくる。

 多色刷り木版画なら下絵を描く絵師がいて、そしてその絵を彫りおこす彫り師がいて、ちゃんと絵心を理解した線じゃないと画家が満足するわけはないし、それから摺師(すりし)ね。版木の一つ一つに沿った色の着色をして、ばれんの力の入れ具合、強弱によって色の付き具合が違いますから、それは熟練の技が必要なわけですよ。これが三位一体になって、本当にいい絵かどうかの効果が表れる。しかも彼らが生活していく地盤が必要なわけで、これは版元が取り仕切って彼らの生活の面倒を見ている。蔦屋重三郎(江戸時代の版元)なんかそうだったらしいけど、内容は変わっても、いまだにそういう関係があるんです。

 一人でできる仕事なんてこの世にないのよ。お豆腐つくってることだって食べてくれる人がいないといけない。お金を払って物を買うっていうのは表現活動でもあると私は理解しています。だからお金を払って自分の生活に必要なことを整えていくということ自体が表現活動だし、それが充実して互いに共有できれば、世の中よくならないわけがないと思いますね。

生きた現実から離れない人

 硲先生は生きた現実から離れない人でした。頭の中だけで物事を決しない、自分の感覚を総動員して全身全霊で、新聞を読むときも文字と文字の間を読めっていつも言ってました。自分で疑問を持って探究しろということですね。先生自身が生きるすべてでそういう態度でしたね。だから着る物、食べる物も無頓着じゃなかった。体に悪い物には神経質なほど嫌って、旬の食材を大事にしたし、生活全般に対して関心もってましたよ。

 真実に対して止まざる探求心というか。次から次へと生まれてくる疑問や怒りや、そういうものと格闘している毎日でしたね。だから感情豊かな人でもありましたよ。素知らぬ顔で通り過ぎるんじゃなくて。だから決まり切ったコースしか歩かないような凝り固まった人にとっては、うるさい人と感じる面があるのかもしれないけど。自分からはわーわー言わないし、質問がない限り、自分からは絵の話はしませんでした。でも質問されると、喜んで答えてくれました。

 私はあまり理屈が頭に入らないうちに、先生のエキスだけを注がれたような感じで、先生のものの考え方、見方なんかが血肉化しているのかもしれません。先生が言いたかったことの本質がストレートに伝わってきました。理屈ではなく、実感で捉えられた。だから今まとめている先生の文集は最近になって読んだものが多いんですが、納得させられるものが多いです。先生は自分が書いた文章を「読んでみろ」なんて言うことはなかった。そういうことを警戒していたかもしれない。私が頭でっかちになっちゃって絵の世界に恐怖心をもったり、自分がやろうとしてることに懐疑の固まりになっちゃったら、にっちもさっちもいかない人間になったら困るという思いがあったのかもしれない。だから私たちが喜べることは何か、日常の中で何を生きがいとできるのかというのを、質問されたことはないんだけど観察されてたような気がする。その当時はわかんなかったけど(笑)。

 硲先生が努力家というのは、絵でも写生なんかに対してすごく厳密なんです。写生の方法ね。石膏のデッサンでそれは痛感しました。非常に勉強になりました。客観するということですね。目に映る感じをそのままぴたっと中心点がくるように描く。それを確かめるには目で測らないと分からないんですよ。描いていかないとその間違いが見つからないんです。描いてるうちに照らし合わせて、でも漠然と見てるだけじゃ分からない。自分自身のやったことに突きつけられる方法です。

 その代わり描いてる間、一枚に描いた木炭の素描が仕上がるまでは、いすの位置、足を出してる位置、手を伸ばしてる位置など対象との位置を動かさない。いすもちゃんとしっかり印を付けて。ずれないように決めて取り組む。1週間なら毎日書き続けて、やっと本当のところにたどりつくことで仕上がるということになるんです。だからすっごい勉強になる。自分に対してクールになる。自分の目を初めて疑うようにもなるし、それがちゃんと描けていないと自分自身が不安定な気持ちになるし、だから物を見るのが習慣になっちゃう。ケースの中の絵がわずか何ミリかゆがんでるだけで分かるんですよね。線とか調子とかというのが、ちゃんと対象を見てるかどうかというのも伝わってくる。素描の基本というのはすごく大きなことだと思いますね。

徹底的に素描を大事にした 

 マティスや硲先生はその方法を終生、身近なところに置いて離さなかったんですよ。芸大では素描は最初の一年くらいに習って終わるものかもしれません。でも先生たちはそれが入口で、終生問い直して、たどり直しても、新しい、今日の目で新しく感じ取り直すということがないと、生きたモチーフのとらえ方にはならないので。これはかなりね、絵を仕事として選んだ人間の使命だと私は思いますが、苦しいところでもあります。でもこの苦しさと共存していかない限り、絵の意味もないので。

 だから坂本繁二郎(1882~1969、洋画家)という絵描きがいて、硲先生と仲良かったんですけど、亡くなる10日くらい前ですね、九州の久留米のお宅に硲先生とお邪魔しました。小柄の方で、日本の田舎の農村のおじいさんといった風情の人でした。アトリエからおいでてみえて応接間で話したんですが、そのときの坂本さんの印象で残ってることがあります。硲先生が加賀で九谷焼の色絵磁器に取り組んでてなかなか大変だみたいな話をしたら、坂本先生が「そうなんですよね、仕事って言うものは、難しいほど面白いんですから。困ったもんですけど、やむを得ないですね」とおっしゃいました。絵ぐらい難しい世界はないっていう考えを硲先生は持っていましたね。

 先生のお弟子の中には「絵ぐらいやさしい世界はない」っていうのもいたけど(笑)。先生のお弟子は幅広いんですが、先生の方法の本当の中身まで理解している人はそういないんだなというのを痛感しました。そういう人達にちゃんと翻訳できていないというのは、わたしの責任の一端もあるかなと思いますね。

 永井潔(1916~2008、洋画家)は24歳年上の先輩弟子です。亡くなるまで漬物石が頭の上にあるような感じだったんだけど、死んじゃって10年くらい経つ間に「なによ、先に死んじゃって。無責任な」っていうね、批判の気持ちも彼に対して生まれたりして。でも待て待て、私も一歩も二歩もひいちゃって、先輩弟子だとあがめて甘えてたんじゃないかなって。私が分かってたことをもう少しね、私がわかってる言葉で彼に伝えるべきことがあったんじゃないかなって。永井潔が硲伊之助を理解していない部分は私にも責任があるんじゃないかなって、そういう気持ちですね。

作家ではなく「画工」。絵の部分を担当している

 今の私は一作家ではなく「一画工」ですね。色絵磁器集団をつくりたかったのですが、その絵の部分を受け持って、彼らと息通わせたいなというのが願いとしてあります。彼らというのは、周りに生きてる人全部です。狭く言えば生地を作る人、上絵の絵の具を作る人、筆をつくる人。これは面相筆というこしの強い筆じゃないとだめなんですが、この作り手がどんどん減っている状況です。そういう仕事への目線というか、深いまなざしというか、理解力が生まれて育てば、そういう世界で生きるのも役に立てるんだと思えばね、携わる人間が増えると思うし。広く深く考えれば、今は過渡期ではないですか。人間が人間的な志を持って生きる、人間に目覚める。

 絵の部分を担当している画工。だから楽なんです。なんでもしょいこんで、私が音頭取るぞじゃない。それでも役割あるような気がするし、最も大事な部分を受け持っているような気がします。作品はいろんな人の力の集積です。この家(築400年の古民家)とおんなじ。そういうところへ理解の気持ちが集まれば、みんながやりやすくなるんじゃないの。どの一角は俺が担ったらいいかな、って手に取るように分かる社会になればいいなと思います。どこでもいいよね、幸せな気持ちになれると思うので。お互いやってる終点というか頂点が間違っていないならば。(続く)

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