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#11 海部公子という生き方

 東京から石川県加賀市吸坂町へ拠点を移し、本格的に色絵磁器制作を始めた硲伊之助と海部さん。1964(昭和39)~65年には朝日新聞社のはからいで、ヨーロッパ諸国を巡る機会に恵まれました。ヨーロッパ近代絵画の一級品を国内に招致し、展覧会を開くための調査が目的でした。その旅路で海部さんは超一流の美術品を目の当たりにし、その後の作品づくりに大きな影響を受けることになります。まずはフランスから始まった旅の前半を振り返ります。(※トップ画像は硲伊之助、1964年パリで撮影)

 欧州8カ国、美術研修の旅

 人間は感動しなくなったらだめですね。自分が感受性を保つために大事にしないといけないことがある。それを一番強く感じることになったのが、先生に随行させてもらったヨーロッパ8カ国の研修の旅です。1964年、私が24歳から25歳にかけてのことです(硲は当時69~70歳)。美術館を中心に巡りました。そこで硲先生の半生で蓄積されたエキスを私は注ぎ込まれたんだから、すっごい得な旅だったよね。「僕から教わる方が、芸大を3つくらい卒業したくらいの実績が身に付くよ」と言われました(笑)。あれは冗談だったのかもしれないけど、確かにそうだなと思うことありますね。資本主義と共産主義が拮抗する世界の両方を出たり入ったりしたんですよね。資本主義も共産主義も国民性を超えることがなくて、国民性の特徴みたいなものがおのおのあるんだと実感がありました。

 きっかけは朝日新聞で親しくしてた事業部長の衣奈多喜男(えな・たきお)さんです。衣奈さんはエジプト5000年展とかミロのビーナス展とかやっていた。企画のたびに硲先生に相談を持ち掛けて、助言を求めていました。「この次の企画どうしようか」「日本に外国から絵を持ってくるとしたらどういうものがいいか」とかね。でも「向こうでは国宝級で大事にしてるものは出さないから交渉が難しい」というような話が出たりして。そういう交渉ができる人、つまり美術を見る目があり、作品を選別し、なおかつ交渉の技術のある人はだれかいるのか、という時に「先生一つ骨折りませんか。いっぺん調査に行ってもらえませんか」という話になったんです。硲先生は「もしぼくがドイツに行ったら、ラファエロの絵なんか紹介できたらいい」と話していましたね。「じゃあ、いっぺん行ってみましょう」ということで行ったんです。

 旅行の費用を朝日新聞が出してくれることになったんです。その話が出る前に、衣奈さんがヌビア遺跡(エジプト)救済キャンペーンの寄付金を集めるというので、私は友人の荒木田麻耶さん(元モデル。大映から若尾文子と同時期に女優デビュー。人形劇団プークにも所属)と100万くらい集めたんですよ。そしたら衣奈さんがえらく感激してくれて、私と麻耶をアラブ大使館に連れて行ったんです。衣奈さんを通じて大使に寄付金を渡したら、大使がお土産にくれたのが、こんな大きな葉巻で、ヘブライ語の金文字で何か書かれてる。それが何十本か入ったケースをどさっとくれたの。衣奈さんから「朝日も面目が立つ」みたいなことを言ってくださって。それもあったと思うの。硲先生が私を随行者に連れて行きたいといったのを、「じゃあ、彼女の分の旅費も計上しましょう」ということで出してくれることになったんです。衣奈さんは英語、イタリア語が堪能で、「ヨーロッパ青鉛筆」とうい本出してますよ。イタリア駐在が長かった方です。


 ヌビア遺跡の救済キャンペーンは「クーリエ」という雑誌にヌビア遺跡特集というのが出たの。アブ・シンベル大神殿を海の中に沈めるな、何とか引き上げて助けようということで、世界的キャンペーンだったんです。そのクーリエを読んだことで、私が触発されたんです。麻耶に話したら「何とかしよう、少しでも協力しようよ」ということで二人でやったんです。どういう人間をターゲットにしたらいいか、リストアップしてね。片っ端から訪ねたんです。こっちは身分も何もない立場だけど、有名人のところにも行きましたよ。藤原審爾さんなんか、家から出てきてすぐに1万円くれた。井伏鱒二さんにももちろん話したし、何人かに声を掛けてくれました。日本の文化に携わる人、それに古美術で金もうけしてる人。そういう人はみんな文化の恩恵を被ってる人たちなんだから、こういうときこそ力を尽くすべきじゃないかという趣旨書を二人で作って持って回ったの。その中に白洲正子さんもいたんだけど、得体の知れない二人が寄付金求めに来たというので、けんもほろろでしたね。


最初の二カ月で滞在費が底をついた

 1964年10月、最初はパリに行き、年末まで滞在しました。パリには(硲の教え子だった)大倉道昌さんがいましたからね。大倉さんは貧乏暮らしして、飢えに貧して大変な状況でした。あの当時、18万円しかお金を持っていけないんですよ。私たちも大変なのに、「大倉を見捨てるわけにいかない」というので、100ドルかのトラベラーズチェックをそっくり置いてきました。結局、滞在費がパリで底をついちゃったのよ。安宿しか泊まれなくて。それで衣奈さんに電話をして、緊急支援をお願いしたの。そしたら衣奈さんがドイツに行く用事があるというので、ドイツで待ち合わせしたんです。ドイツの空港で50万くらい引き出すことができて、どうにかその後の旅を続けました。だから10ヶ月もいたなんて夢みたいな話なんです。

 もっと具合が悪かったのが、以前に硲先生がお兄さんの家からお金を借りてたことがあるの。それを先生がヨーロッパに研修旅行に行くことになったんで、ということで報告したら、その甥がうちに乗り込んできて「長い旅行になるなら、後がどうなるか分からないから、お金を返していけ」って言われたの。それでなけなしのところへ、どうにかつくった滞在費のいくらかを返済に充てたの。そんなこともあって、結構大変だったんです。

 だからこの先どうなるかわからない、っていうで、私はのんきだったけど、先生は切実な気持ちだったと思います。自分の命がいつ終わるかわからない、あと自分の真意をどうすれば伝え残せるのか。跡継ぎが本当にほしかったんだと思いますね。芸大で随分たくさんの生徒を教えたんだけど、一人もちゃんと自分の思いを伝えることが難しかったというのが、(芸大を)辞めた原因の大きな部分だったと思うのね。

 大倉さんはパリに行く前に、岡山で硲先生と私と展覧会をやっています。看板の一番上に私の名前が表記されてしまって、芸大出身者なんかはびっくりしちゃいますよね。今でも芸大で教わったという人が友の会に何人かいますが、先生は芸大のことはあまり良く思ってなくて、芸大どころか日本の美術教育は最低だという考えを持っていました。どうしたら日本人が持ってる真っすぐな感性のままに伸ばせるか、ということばっかり関心持っていましたね。自分のできないことは人に求めないけど、自分にできることは人にもできるはずだと思っていた節があります。そういう点では、一緒にいて呼吸がしやすかったですよ。すごく素直だった。

岡山での3人展

(1961年岡山天満屋での三人展。看板に海部さんの名前が筆頭にある。背後でスカーフを広げるのが海部さん。右隣が硲伊之助)

パリで交流を温めた人々

 パリではルーブルに毎日通ったし、ピカソの美術館や東洋美術の美術館とかを巡りました。硲先生はポイントをきちっと抑えて、私に印象に残るような解説を絵の前でしてくれるんです。だから忘れないです。それから先生の友達にも連日のように会いました。友達の佐藤敬(画家、1906~78)のところには何回か行きましたね。リュ・ファリユゲールというところにダックスフンドのファコブと一緒に住んでいました。パリの上流階級から物乞いまで、幅広い人脈がある人。だから話題が豊富で、全部録音しておきたいくらい面白かったですね。その彼の奥さんが佐藤美子(1903~82)というオペラ歌手です。銀座の一番館とかいうビルの奥でナイトクラブやってました。佐藤美子はイブモンタンが歌った「枯れ葉」を日本語訳で歌ったんです。「枯れ葉」の元の詩をつくったのがジャック・プレヴェールという詩人です。この詩人はすごく変わっていて、詩が面白いのよ。アンチクリスチャンなの。硲先生はこの詩人に随分肩入れして、詩を翻訳して人に伝えていました。その一人に佐藤美子がいて、「枯れ葉」を日本語で歌ったから日本で流行したんです。佐藤美子は美しい人でしたよ。ナイトクラブにいた時にお目にかかったんだけど。

 フランスでは青山三郎さんという50年以上パリに住む骨董商がいて、モンターニュベルトと呼ばれていました。骨董界ではフランス人に知られてる人で、日本人がみんな頼りにしていく人なの。その青山さんがサンミッシェルに大きなアパルトマンを持っていて、7部屋か8部屋かあるような豪華なところに住んでいて、その各部屋に美術品がぎっしりありました。特に日本美術が多くて、私は毎日そこに行くのが楽しみでした。奥さんはフランス人なんだけど、日本語がひと言もできなくて。青山さんはそれを意識してわざと日本語だけで話して、奥さんは何にも介入できなくて気の毒な気がしました。二人ともお金持ちで、それぞれ別荘や車を持っていました。休みになるとそれぞれの別荘にそれぞれ行く生活をしていました。私は奥さんと仲良くなって、フランス語はほんの数カ月しか習ってなかったんだけど、肝心なときに役に立つということを体感しました。「お金がなくて困ってるんで、必ず返すから助けて」って頼んだら「いくらいるんだ」って聞いてくれて、ちゃんと通じたのよね。硲先生はそういう借金の申し込みは絶対できない人でしたから。だから先生も驚いたみたいよ。それで衣奈さんにドイツに出会うまでのつなぎができたのよね。

ラファエロ「システィーナの聖母」に圧倒

 パリの後は翌年1月中旬までベルギーとオランダを歩きました。オランダのアムステルダムからハールレムに行き、フランス・ハルツ(17世紀の画家)の美術館を訪ねたら休みでした。残念だったんだけど、オランダ人と日本人のご夫婦が親切に声を掛けてくれ、ご自宅に招かれ、感激のお正月でした。それからロンドンに行って、スペインへ行って。スペインはトレドとかマドリッドとか、グレコの美術館とか素晴らしかったですよ。そこにしばらくいて、それから1月下旬にドイツに行きました。真冬の真っ最中でした。二カ月くらい滞在しました。ドレスデンとかワイマール、ライプティヒ、アイゼナッハとか、美術館を訪ね歩きました。ドレスデンの教会でラファエロの「システィーナの聖母」という絵を見て、圧倒されたの。良い指導者がそばにいてくれて、ポイントを抑えて見せてもらいました。「先生が大事だと思うのは何だろう」という興味もありましたし、今になって振り返ると記憶から浮かび上がってきます。貴重な体験だったと思います。

 硲先生はラファエロを最大に評価して、色彩の大天才だと言っていました。アンチクリスチャンのはずなのにね。この研修旅行の時にラファエロの「システィーナの聖母」(複製画)を私がほしくて買ってきたんですが、有島生馬(画家、1882~1974)の娘の有島暁子さんにその話をしたら「ぜひ貸してください」というのでお貸ししたんです。だから返してほしいんですが、有島さんの娘さんも亡くなってしまいました。

システィーナの聖母

(ラファエロ・サンティ「システィーナの聖母」、アルテ・マイスター絵画館)

 どこにどんな絵があるのか、というのは先生の中にインプットされてるの。でもスペインはこの時が初めて行ったようです。ゴヤがもともと好きだったけど、この時に見た「市民銃殺図」にはすごい感動ぶりで、その姿は忘れられません。ベルギーのブリュッセルで見たルーベンスにも本当に驚きました。アントワープの教会の祭壇画になっている「キリストを十字架から降ろす図」は最大傑作なのに、日本ではその話を聞くことがないのが不思議でした。これもキリスト教絵画なのに、先生は認めていましたね。日本人には絶対分からない、知らない世界だろうなと思った。先生が「こういう国宝級のものは日本に貸さないよ」って言ってたら、その通りだった。日本人はミロのビーナスをギリシャ彫刻の最高品と意識しているけれど、先生の認識ではそうじゃないんです。ギリシャっていうのはこういうもんだというのは、ブリティッシュミュージアムに神殿ごと持ってきたような展示品を見て「なるほど」と思いましたね。ルーブルでは正面入ってすぐのところに「サモトラケのニケ」(紀元前190年ごろの作品と推定)という彫刻作品がありましたが、ミロのビーナスが足元に及ばないほど素晴らしかったです。そういうものの見方に最初に入っちゃったから良かったですよ。ミロのビーナスなんて彫りが浅く感じる。ギリシャの古代彫刻の衣服は大理石でできてるなんて思えない。透き通った衣服が風に揺れてる感じが伝わってくるの。そのリアリティと来たら、びっくりします。ルーブルでは「モナリザ」よりも、コローの「真珠の女」を見るべきだとも言っていました。私もそうしましたし、納得でした。

コロー真珠の女

(カミーユ・コロー「真珠の女」、ルーブル美術館蔵)

人間はリアリティに感動する

 人間の生活で何に感動するかというとリアリティだと思う。それのない文章も絵画も、感動には結び付けない。美から実感した感動は、人の魂を揺さぶりますよ。そういう体験が大きくて、日本の油絵見たらへたくそで、どんな有名な絵描きの絵でも批判的に見る目ができていて満足しないこと多いですね。先生自身もあれだけ苦労してやっていながら、それは随分実感したんだと思う。文化の恐ろしさ、根深さというか、生活の積み重ねの中からこそ作品は生まれるんであって、それが他の人種が来てまねごとしてもね。建物がそうですよね。安普請で西洋建築のまね事とかね、先生はボール紙建築と言っていましたが。本当にあちらの文化を理解して、それに近づけるために一生懸命やったものはちょっと違いますけどね。だいたい人にアピールしようとしてつくった西洋建築は安っぽくて貧弱ですよね。

欧州で到達した思い

 (※筆者問い=硲先生の中で西洋美術に対し「かなわない」という思いがあったのか?)20年近くにもわたるヨーロッパでの格闘を通じて到達したのよね。気候風土が第一違うからね。日本にいるときは写生に行きたくて仕方ないんだけど、すぐ気候が変わるんですよね。午前中晴れてたら、午後は雲が出てきたり、雨が降ってきたり。そうすると自分が取り組んだときの感動がどっかへ行ってしまって、天気待ちしなきゃいけなくなるの。だから非常に風景は苦労していましたよ。あまり苦労しないで済む取り組みしてる人が多いんだけど。実感なんて構わない、頭の中や写真でこさえちゃうような。硲先生はそういうことを絶対にしなかった。だからあちらのコローとかゴッホとかマティスとか、写実の大家と呼ばれているクールベとか、そういう近代絵画の巨匠と言われる人たちの足跡を追って、深入りしていったんです。文化の継承といっても歴史に題材取ったり、宗教に傾いたり、文学的要素に引きずり込まれたり、そいういうのをとても嫌っていました。絵画的な真髄を追及した人でしたね。それが何かというのを突き止めて把握した数少ない絵描きだと思います。

 そういうものが日本の絵画の伝統の中、特に徳川家康が江戸幕府を開いて、武士が戦わなくなった二世紀半くらいの平和な時代に、日本独自の、民衆が初めて力を持った時代ですよね、その時代に華開いた絵画芸術の中でも、浮世絵版画というのは特に面白いものですね。庶民の欲求とか希望が横溢している世界なんです。歌麿とか広重にそれが結実しているの。技術的な源泉は中国の明にあるんだけどね。そういうところから継承しているんだけど、内容は日本独自の全く違うものになってる。民衆の熱気が反映されていて、自由奔放だし、美しいし、静謐だし、ハーモニーが完全なんだ。油絵で探究されてきた近代絵画のハーモニーやヴァルールが完全に生きてるの。特に鈴木春信です。絶対注目した方が良いですよ。面白いから。それをもっと写実的に発展させた歌麿。この人の最大傑作はブリティッシュミュージアムに入っています。硲先生はそういうことも書き残しているので、今度出す硲先生の文集にはそういうことも出てくると思います。

色絵磁器に真実を見いだした

 古九谷もその流れに含まれるんです。さらに平安朝の日本の大和絵の系譜にさかのぼれます。源氏物語絵巻とか、その頃の絵画がなぜ残っているかというと、顔料が良いですからね。多色刷り木版画の欠点は植物顔料で書かれた物が多いのね。だからこそ素晴らしいというのもあるんだけど、陽にさらされたら退色するので、反物のように畳紙に包んで桐たんすにしまって。だけどヨーロッパの人は版画をすごく評価して、モネなんかもたくさん購入してるのね。でも扱いを心得ずに陽の燦々とあたる壁に掛けて眺めてるものだから、すっかり退色してしまって。モネのジヴェルニーの館の中に陳列されてた歌麿や広重の絵の里帰り展が三越であって見に行ったんだけど、あきれちゃったの。あまりにも違う物になっていて。その恐ろしさがあるから、今後どうなるかというのはね。その点では色絵磁器の世界は優れた素材なんですよね。恒久的な素材であり、優秀な価値のある世界というのに、硲先生だからこそつかんだ真実だと思うのね。そのことを知る人が一人も居ないので、それを伝える術がないわけですよ。われわれのささやかな、本当に足元にも及ばないような仕事を通じてしか伝えられないのが残念です。若い人がそういうことに気づいたら、すごいエネルギーが生まれると思うんですがね。

 私はものすごく運が良くて、いい師に出会って、エキスを全部浴びてるんだなというのは実感しましたね。自信の根拠にはなってるよね、孤独じゃないですよ。世界と通じてるという認識が自分に腹を据えさせてくれてるから。(続く)

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(2021年11月16日、うさぎのカップに絵付けする海部さん)


 

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