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#19 海部公子という生き方

 1994年6月30日、硲伊之助美術館は九谷吸坂窯(石川県加賀市吸坂町)の敷地内に開館しました。日本古来の伝統的工法で造られた美術館は、いつも空気がしんと澄み、北側の天窓から差し込む柔らかい光に包まれています。海部さんは2022年4月に亡くなる半年前、この美術館を若い作り手を育てるアトリエにし、美術館を再建する構想を描きました。

アルミサッシとの闘い

 美術館はすべて自然の材質、本物の素材でつくられています。建物は出蔵喜八大工(いずくら・きはち石川県白山市)です。コンクリートやアルミサッシは一切使っていない。土壁と木造です。アルミサッシを入れている人を見ると、左官屋さんや建具やさんに「お前たち死んでもいいんだぞ」って言ってるように見えるのね。(職人の)仕事をみんなでなくしちゃってるんだよ、よってたかって。ここは徹底的に新建材排除、コンクリート排除、アルミサッシ排除。そういうものを受け入れると言うことは、そういう人間はいらないよっていう表現になるから。そういう世の中にしちゃいけないっていう自分のポリシーがある。喜八大工とはそのポリシーが一致できている。だから最初から志が一つになってるという感覚があります。

 壁は木舞組みの土壁です。古い土壁でも、壁土をもう一度使えるのよ。その仕事はすごく面白いと思うわ。石組みは地元の中村石材がやってくれました。タイルはマティスのアトリエと同じトマト色のタイルを入れました。日本のものではないけれど、不思議と調和しています。米原万里さんとユリさんの親の米原美智子さんが、向こう(ヨーロッパ)で探してくれたの。

 開館式はとてもよかったですよ。テント張ってね。晴れがましい気持ちでした。喜八大工や左官屋さん、石工、建具や展示ケースを制作した職人さんたちをたたえて、表彰状と記念品を贈りました。(フォルクローレ奏者の)ソンコ・マージュさんが歌いに来てくれました。その後も岸田今日子さんや増田れい子さん、マルセ太郎さん、永六輔さん、井上ひさしさんらが講演に来てくれました。幅は決して広くはないんだけど、自分たちと合う人、全面的に応援できる人だけ呼んでやってきたの。だから場所代を取って貸すとか、そんなことを一切やってこなかった。ここをそういう場所にしたがったり、喫茶店をやれっていう人もいたけれど。そうなっちゃったら趣旨が違ってくるから。


出蔵喜八棟梁によって建てられ、1994年に開館した硲伊之助美術館

自分の素手で生きている人

 美術館に運営委員会を設けたのは、個人では絶対だめだと思ったから。どんな若い後継者が現れても、個人個人でやり抜けるような仕事じゃないんですよ。私たちがいろんな人の力を借りてできてきたことを思うと、日本のすべての成り立ち、式年遷宮のことにしても何にしても、全体の調和と助け合いの精神ね。そして無手勝流というか、人間は資産なんてない方がいいの。自分の素手で生きてるような人たちの方が、力を本当に付けることができる存在だと思う。

 そういう人たちと、つまり弱い人たちが助け合う形が基本だと思う。美もそういうところがあります。美しい花を見たらみんなどう思うか。野の花を見るように見ればいいんだよ、美術は。絶対に。簡単なんです。いちばん簡単なことが一番難しいことにされてるの。バカみたい。人も色も関係です。関係が生まれないようなあり方はだめなの。そして関係を深めることの中に技術の発展があるし、互いの信頼も深まるし、人間生活が分かりやすく楽しくなる。秘けつだな。

 人間は本来、攻撃力を持って生まれてるのよ。うっかりするとそれが他者に向かって、人を殺めたりしてしまう。スポーツなんかはそれがうまく消化されてる。けれど絵の世界は、自分に向ける刃しか持っちゃいけない。そういう世界だから。自分を客観視して、自分の欠陥を見いだすよう努めて、自己を克服するということを通じて、ありのままの自分を認めたときに初めて、万人への説得力を持つことができる。ありのままの自分っていうのはなかなかね、着込んでる着物が多すぎて、いろんな欲望だとか、そねみだとか、嫉妬だとか、人間はくだらない感情持っているから、そういうものを超えていく。自己を超克する。超えていく葛藤が必要なんですよね。自分と格闘しないような人間は絵を描けない。それから職人にもなれない。

「ぜいたくは素敵だ」

 戦争中、「ぜいたくは敵だ」というのが標語だったそうです。(硲伊之助)先生は夜中にマジックで「敵」の上に「素」という字を入れて歩いたらしい。「ぜいたくは素敵だ」て。今の私は、ぜいたくは必要だと思うようになった。ぜいたくが必要じゃなくなったら、オウム真理教の世界だよ。ぜいたくは絶対に必要ですよ。だたそれに振り回されたらだめ。ぜいたくを知るには勉強しなきゃだめだし、だからみんな教養を身に付けるために大学なんかに行けるようになったのはいいことだと思うし、勉強の機会を持つべきですよね。
 
 私はもう一度生まれてきたら、イリノイ大学に入りたい。素晴らしいキャンパスだったから。イリノイ大学の日本語学の教授の素晴らしいお宅に泊めてもらったことがあるの。それがもう日本語について徹底してるんですよ。サンクスギビングの夜に七面鳥食べるんだよね。教授の家でもそういう会が催されて、英語なんてひと言も出ない。日本語だけです。平安朝絵画の専門家はその含蓄を語るし、江戸文学の専門家は版画の後ろに書いてある字を読みこなすし、すごいんですよ。そういう人たちがね、広いキャンパスの中に小さなプチシャトーがあって、それが研究室や教室になってるの。素晴らしいなあと思って。教授と差しで勉強ができるし。全米で三本の指に入る立派な図書館も持ってるの。ああいうところで、じっくりと系統だった勉強ができれば、素晴らしいことができる可能性があるよね。


硲伊之助美術館で開いた紘一さんとの九谷吸坂窯展。海部さんは大作に挑戦し、在世中で最後の作品展となった(2021年6月10日)

アトリエをつくって生徒を受け入れるの

 それでね、ここを再建することにしたから。上(美術館)はアトリエをつくって、5、6人の生徒を受け入れるの。私は九谷吸坂窯の主宰者になる。(石川県能美市の)九谷焼技術研修所でこれまで何百人もの生徒と接してきたんだけど、彼らを生かしたいわけよ、私。彼らの将来が気になってるから。色絵磁器のための素描塾を立ち上げるということで、数日前にまず大工に相談したの。(大工も)材木は全部出すからやらせてくれ、って言ってくれてね。

 (焼失したアトリエがあった)あっちに本格的な蔵造りの先生の作品にふさわしい美術館をつくるんです。蔵造りの本壁の大工仕事、左官の仕事を中心にして弟子もちゃんと再生していくような建物です。4億かかろうが5億かかろうが、お金は後からついてくるから。

 日本はやっぱり仕事が好きな人がたくさんいるし、まず第一に絵が好きな人が多いんだよ、よその国に比べて。みんな絵の才能があるの。なのに中途半端にもてはやされて、天才扱いされて、ちょっと有名になってもうけたりして、人間同士が最後は共食いみたいになっちゃうの。売ってる人と作ってる人の関係が悪くなって。みんな考え違いしないように、私が息がある間は彼らを指導しようと思ってるの、素描塾で。2、3年でも生きられれば、その間にできることは多いよ。知恵を働かせれば、ここが文化発信の地として残っていく、盛んになっていく場所になると私は思ってる。(続く)


庭の木になったアンズで作ったジャム。たくさん作って、友人や知人に配っていた。(2021年7月)
 

 

 


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