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#20 海部公子という生き方

 硲伊之助の制作活動を支え、晩年は自ら制作者として絵を描く仕事に向き合ってきた海部さん。「作家」と呼ばれることを拒み、「色絵磁器画工」という一職人のスタンスを貫きました。その原点には江戸時代前期に大聖寺藩領九谷村(現石川県加賀市山中温泉九谷町)で焼かれた古九谷への共鳴があり、最後まで「古九谷美術館」を加賀の地につくることを願いました。古九谷への想い、古九谷美術館への想いを最後に聞きました。

ヨーロッパで知った日本の美、自由な精神

 硲(伊之助)先生は日本の文化文政以後に発展した浮世絵版画を全く知らずにヨーロッパに行っていたんです。日本の美術を知らずに。それを南仏の宝石商でアンリ・ベベルさん(世界的な骨董収集家)という人から浮世絵の収集を「見に来ていいよ」と言われて、その膨大な収集を見てびっくりしたらしい。すごい世界を日本が持っていたんだって、全く自分が知らなかった日本の美術について、初めて衝撃受けたらしいです。

 日本の浮世絵は印象派の絵描きたちの色彩への開眼を大きく促し、印象派以後の絵描きたちを鼓舞したんですよね。向こうの人達が本当に日本の美に触れて感動した。美というか自由な精神ですね。ごく短い時間なんですよね。浮世絵の版画が発達した時期っていうのは。日本で言えば、家康の政治が1600年代に発展して、その時期って言うのは多くの浪人が生まれた時代ですよ。戦争によって人の国の富を奪ったり、そういう覇権的な行為に加担して刀振り回していばれる時代じゃなくなった。平和をつくれる、短い幸せな時期とも言えるかもしれない。庶民や町人たちが自分の力を発揮して、侍たちは刀を納めて浪人になっちゃった人も多くて。そういう人達と町人が力を合わせた時代ね。ほんとに短い時代ですね。自由が光る時代だった。でもこれがすごいことだと感じましたよ。この時代に注目すべきじゃないかなと。この自由が、浅黄裏とか言って権力者をやゆしていろんなユーモラスな話が生まれる時代だし、庶民が力を持って、退役浪人たちと力を合わせて古九谷が生まれた、その背景を感じるんですよ。自由な空気を。

 江戸時代中期のものはすごい面白いなと思いますね。歌麿、春信はその時代の人ですから。だんだんひどくなってきて、幕府は恐れたんでしょ。庶民の反権力へのそういう自由な精神っていうのが自分たちには有害で邪魔になると思って、だんだん規則を厳しくして。歌麿も手鎖50何日とかいって浮世絵を描けなくなるんですよ。彼は逆に庶民の女の人の働く姿なんかに題材を求めるようになって、それがまた素晴らしい結果をもたらすことになる。庶民のなかの働く女たち。その美しさ、価値を発掘していくわけよ。彼の残した作品のなかに最も尊重されるべき要素があって、国立ブリティッシュミュージアムには歌麿の最大傑作、3枚つづりの針仕事をする女たちがあります。一枚ずつでも三枚でも素晴らしい構図になっていて。私は実物をそこで見てないけれど、知ってます。その時代に鈴木春信という人が生まれてて、それが錦絵の創始者で。錦絵というのは色刷り版画のね。一枚一枚が独立したタブローになってるところが、鈴木春信の創造者としての見事な出発点であり、帰結であり、今日までね。近代絵画としての内容をきちっと持ってるんですよ。

 鈴木春信の発見した錦絵の原点は明の崇禎17世紀ごろ、春信の生まれた時代より120年ほど前に、十竹斎箋譜(じっちくさいせんぷ)といいうものがあるんです。それが直接日本に移入されてることを感じて、硲伊之助はしょっちゅう言っていましたけれど。誰一人、受け継いで発言する人も書く人もいないので、それに私は衝撃受けてますね。なんていうことだと思って。(古九谷が生まれる経緯は)物語ばかりが大きくなって、有田へ技術を盗みに行くために、よその家に入り込んでむこになって子ども作ったりとか。そんな物語ばかりが膨らんでて、いい加減なもんだなと思って。これはただされなきゃいけないんじゃないのと、私は思ってます。明の五彩そのものが日本に来てますから。日本と直接なんですよ。

 それと前田利治公の菩提寺の実性院(石川県加賀市大聖寺下屋敷町)というのは、大聖寺にとってだけでなく、日本にとって大事な場所じゃないかと感じていた。前田利治は古九谷の創始者と言われながら、ちっともその実態を追求する人がいなくて。そのままほったかされてる感じですけど。これをきちっと掘り起こして評価されるべきだと私は思っています。

 というのも利治と硲伊之助の美意識は重なるんじゃないかなと思うんです。彼の美意識がなければ古九谷は生まれてないと思いますね。42歳ころに江戸で亡くなった原因もわかってない。殺されたという説があるけれど、ほんとかもしれない。確かめようもないかもしれないけれど。ほんとのところはどうだったのかなって。東京から運んできて、実性院でお葬式やるんだけど、殉死した人もいるんだよね。そのお墓もあるんだ。そのずっと前に利治は、江戸上屋敷に自分の趣味で琳派の絵や、桃山絵画からずっと自分の美意識で集めたもので飾り立てて、そういう部屋をつくったら、親父の利常がやってきて全部壊しちゃったんだよね。彼の逆鱗に触れたんだ。利常は覇権主義だからね。利治の勝手な行為というか、自分の意見をそっちのけにした、そういう利治を叱責しこらしめたんでしょ。そんなところを考えると、権力者と美を追究する気持ちの人間との違いというか、そういうのも見えてくる気がする。

 久隅守景(くずみ・もりかげ、江戸前期の狩野派の絵師)という絵描きがいるんですけど、この人は前田家で6年間扶持をもらって、高岡の瑞龍寺に逗留して加賀の農村の絵を残してますね。彼が大きな功績果たしたんじゃないかと、硲伊之助も常々言っていました。どういう人間かと言うと、師匠の狩野探幽の絵に筆いれちゃって、波紋されたんだよね。自分の絵に手を入れるなんてけしからんていって。狩野探幽という人も狩野派の重鎮で、覇権的な人ですよ。美への系統とは違う思考の人間で、時の権力者と仲良くやっていけるような要素のある人間だったと思います。

「絵描きが焼き物に取り組むとしたら何がいいか」

 硲先生と古九谷との出会いは、親友の木下義謙さんが古九谷に非常に傾倒していて、面白がっていて。木下先生は非常に頭脳明晰な人で、科学的なことにも明るい先生でした。ここへ来ても絵の具の研究、どこの鉱石、どこのコバルトがいいとか悪いとか、私はさっぱりだったんだけど、その結果をずいぶん使わせていただいて、そして一緒に暮らすことが全然苦痛じゃなかったし、面白かったです。

 木下先生と同時に硲先生もやっぱり焼き物に関心もって、「自分たち絵描きが焼き物に取り組むとしたら何がいいかね」って木下先生に問いかけたらしい。そしたら「そりゃもう古九谷でしょ」って言下に答えたそうですよ。そのころ中村研一さん(洋画家)だとかもみんなこっちへ来て、徳田八十吉翁にね(焼き物を習った)。徳田八十吉という人はほんとの職人魂の人で、「自分は絵が描けないから、力を貸してほしい」という気持ちがあって、偉い人だよ、人間的に。硲先生や木下先生を大歓迎してくれました。二代目の魁星(かいせい)さんが二階から宮崎さんという人がつくった生地をわざわざ下ろしてきて、その光景が目に残ってますわ。屋根裏の部屋から、大切にしてきた生地をくださったんです。

 お互いに高め合う空気が関係性の中で生まれていた。魁星さんはすごく親近感を持てる人でした。ここで展覧会をやるっていったら、真っ先に作品を買ってくれて応援してくれました。色絵のことについちゃ、何か質問すれば10くらい答えが返ってくるくらい、熱心に教えてくれたし。また奥さんが素晴らしい人で。美人でてきぱきと、小股の切れ上がった女がいるならああいう人かなと思うくらい、私にもとても親切でした。行くたびにご馳走してくれて、囲炉裏のある部屋でいつもごちそうになって。東京から来た若い女の私に対しても親切によくしていただいたと思います。

 実物の古九谷を見る機会はしょっちゅうありましたよ。その頃はどんどん流出してる最中で、骨董屋が介在して東京やらに売り払われてたね。それでどこいっても古九谷見ましたね。家にもあったし、骨董屋ね。大聖寺の何軒もあった。そこいけば必ずあったもの。私が目で見てもわーっと思うようなものがたくさんありました。美術館に入ってるのなんてたいしたことないって思うくらい、今も隠れて流通してるんでしょうけれど。

「古九谷は色彩原則の上にしっかり立っている」

 硲先生は古九谷について「色彩原則というものの上にしっかり足をつけて立ってる。そういう存在だ」って言ってましたね。ずーっと聞いてきた。私自身作ってきて、その通りだと思うことの連続ですね。だんたん好きになるし、作ることも、深入りしていくことができるようになったのも、先生の励ましのおかげです。それ以外なかったもん。私を励ますのと、なにかというとほめてくれて、私の実際よりも高い評価与えて、なんとか自分の共生者としてふさわしい存在になってほしいとう思いがあったと思います。私は作ることに一生懸命になんかなってなかったし、有名になりたいとも思ってなかったし、ましてやお金儲けしたいとも思ってなかった。ともかく先生のそばで、絵のそばで呼吸できるだけでも幸せという気持ちだった。だからだんだん先生の作る物に自分が関与してるんだっていう自覚が生まれて、先生の作品に首突っ込んで、なんか言うと喜んでくれる人でしたから。

 ただ月給目当てについてくるお弟子じゃ困るというのがあったと思います。それじゃ寂しかったでしょう。私は先生の寂しさにつきあっていこうと思っていた。先生がなんでそんなに寂しそうなのか、寂しさが衣着てるような人だった。お金持ちに生まれちゃったとか、お金に困らないとか、エリートだとか、そういうのが全然幸せじゃないということを、それ以前からすごく感じていました。

 それはクリスチャンの母の影響があったのかもしれない。それはみんな去年読んだ三浦綾子さんの本からですね。(本を読んで)大変革、大変動が私のなかで起きて。それが今も私を揺れ動かし続けていて。そのことは大歓迎ですね、私自身。

古九谷美術館を加賀の地に

 この地に古九谷美術館をつくることは、大変重要な意味を持つだろうと考えています。だって古九谷って一点あっても光るけど、それを集めていく美術館でいいじゃない。それを透明な運営にして、みんなが参加して、みんなの美術館ていう、最初からね、空手でも始められる。みんなの感性が呼び覚まされるように。最初はいろんなものがごちゃごちゃあって仕方が無いだろうけど、だんだん本物に入れ替わっていくだろうと思いますね。10点、20点あれば。すでにそれ以上のものがあるのでね、内容的に。十分な古九谷美術館としての資格もね。クラウドファンディングで作品を集めていくのもそれは面白いんじゃないかな。

 古九谷好きな人多いもん。もともと見てる人も知ってる人も多いし、ただそこに介在する古美術商とか、お金だけに還元してしまうような考え方とか、無益な方向への原動力にもなっていて残念なんですけど。これは最初からあんまり変わってないね。絶対みんな感受性を持ってるからね。そういうものを大切にしていく考え方の中から、本当のものにね、変わっていく。それ以外のものを受け付けないくらい、強い体質になると思いますね。自分が育ってきたことを思うと。


2022年4月10日、硲伊之助美術館を建てた出蔵喜八大工(左から2人目)、茅葺き職人の杉山信義さん(同右)、茅葺き職人の松木礼さん(左)と語らいのひととき。

色と人の生き方は一致する

 色と人の生き方は不思議に一致してて、それは関係のことだって言ったでしょ。これ大事なことなんですよ。硲伊之助の根幹の考え方でもあるし、近代絵画の要諦でもあるし、それが古九谷の中にあって、古九谷というのはそういう個性の発露として自由で素晴らしい世界なんです。これは突き詰めると反権力というか、危険思想に考える人達がいるかもしれないけれど、そういう人たちはうっかりすると利用される恐れがある。ファシズムとか怖いよね。昨日まで平和平和って言ってた人が、明日はホロコーストに参加するかもしれない。加害者側に回る可能性もあるので。今の危険な状況は考えなきゃいけないんだけど、でも人間の内面にある攻撃的な能力、これがスポーツだと非常にうまく消化されていますよね。スポーツでは人間の攻撃性がいい形で矛を収められてるけど、これがまずく働けば人を殺める方向にいっちゃう可能性がある。

 これが美の世界においては、自分に向ける攻撃というのは、人を害するのではなく、自己反省とか自分を超克するということに刃が向けられるわけですから、人に迷惑をかけるのではなく、自分自身の超克、自分自身と取り組むということが絶対に課せられる世界なんです。これは素晴らしいことなんですよね。それと近代絵画の要諦とが一致して、リアリズムがいかに大事かということです。人間にとってリアリストであるっていうことが。今度の三浦綾子さんの仕事に触れてから、キリストが原理主義者じゃなくて、本当の意味のリアリストなんだと。一番の破壊者がキリスト自身なんだからと。これは面白いなと思って。硲伊之助のリアリズム絵画とはっきり結びつくし、そういう発見がとても楽しいです。

 ちょっと難しいかもしれないけれど、野に咲く花をきれいと思うじゃない。これと同じように絵も考えればいいんで、難しいことじゃ全然ないんですよね。むしろ易しすぎるくらい易しいことで。弱いじゃないの。野の花なんて、踏みつぶされて。キリストもそうなんだ。イエス様は全然人を責めない。すべてを許し、ホリウッド人への手紙というのがとってもいいんですけど、聖書は読み方でね、聖人君子の世界みたいに思われたりするんだけど、そういうのに読みたいとは思わないけど。三浦綾子さんのはわかりやすくて、入門書として最高だと思う。旧約聖書と新約聖書を同時に一冊のものとして読んでほしいって言ってる。旧約聖書を読んで私が思うのは、私の中に原罪意識というのがあって、人間はみんな悪者以外に何者でもない、あてにならざるは一人もなし。原罪意識ですね。人間が神に背いて禁じられたものを食べてしまう、そして一生地を這うようにして働かなければ糧が得られないような状況に追い込まれる原因。そいういう話を作った人がいるんでしょう。人間理解がすごい深いんで。これはすごいなと思う。そういう風に感じ取れるのは、私の原点に洗礼受けて、教会に小さい時から通った。祈りに暮れ祈りに開ける日常があった。そういう背景があったから三浦綾子さんの著書が私の心を打ったんだと思います。だから皆さんに全部通用する話だとは思ってないんだけど、想像力が必要な書物だと思います。あとは想像力で補うというか。想像力は大事だと思う。だからいいものに触れていく。

 だから人間にはぜいたくが必要だと思う。教養だったり美意識だったり、それから弱いものへの共感ですね。弱者を生きるっていうことでしょうね。弱者は助け合うっていう。本当の意味の共生に向かう動機でもあるし、これがないと、他者っていう視線がないと、人間はお互いのことを忖度しあって行方不明になっちゃうんで。お互いを他者として丸ごと認めるっていうことから始めると、すごくやるべきことが見えてきて、隣の人のことを何にも知らないでいてわかるわけがないので。本音を聞いて、この人がなんで困ってるのか、なんでつらいのか、それを見ること、感じることができれば、少しでも助けになるとか、手がかりが生まれてくるじゃないですか。それが大事だと思う。それは面白いね。

「野に咲く花が美しい」という感性さえあれば

 82年の人生、悔いないですね。人間は精一杯働けるということぐらい素晴らしいことはない。まるごと誰に遠慮することもなく、自由を行使した、しつくしたと思いますね。よくここまで生き延びてきたなと思います。先生と出会ってなかったら私は自殺してたと思います。呼べど叫べど誰も聞いてくれないっていうのがあったので、「こんな世の中」って思ったりもしたかもしれない。だるまさんが自分のうでを切り落としたり、ゴッホが耳を切り落としたりした、その気持ちがわかるもん。そんな最中に先生が私の方を見て写生してたんで。大きな感動でしたね。

 対峙する相手と信頼関係を築けるかどうか。それは難しいことでは全然なくて、野に咲く花が美しいっていう感性があれば、みんな解決すると思う。死にたいと思うことも多いけど、人間は死ぬ瞬間まで希望を捨てちゃいけないと思う。そういう感性を持った人たちであふれてるの、本当は。見えないだけ。それが古九谷美術館にすることでずっと変わってくるよ。その要にはつくり出す生活者の営みが大事なの。国道8号にずらっと並んだパチンコ屋の中で窒息しそうにあえいでいる人たちがいる。そこに引きずり込まれないと生きていけないような現実。やっぱりリアリストの目が必要なんだと思う。キリストと絵描きの接点があると思うの。堅固な精神世界がある。自分がその中に、生き地獄の現実の中に取り込まれたままだったら生きてないと思う。生きてないと思えることは、リアリスティックな感覚でわかります。

 命が生まれるということは、一瞬一刻が命の瀬戸際であるということを、誰しもに与えられた現実だと思うの。それを知ることができたら、随分みんな楽になっていくのになあって思う。その突破口が古九谷美術館にある。その大もとが九谷吸坂窯ですよ。そこには先生がいる。硲伊之助がいる。(終わり)

2022年4月13日。大聖寺の鮮魚店に特注したうな重を少し食べた後、和菓子をいただきながら語らった。この8日後の21日、夫の紘一さんに看取られながら82歳で永眠した。

 

 

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