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#17 海部公子という生き方

 1977年、硲伊之助は石川県加賀市吸坂町の自宅で82歳の生涯を閉じました。絵画の本質を追及し、絵画を通じて人間のありようを見つめ続けた人でした。最期に残した言葉に、海部さんはずっと重い責任を感じて生きてきたと言います。

後を託すと遺言書に残した

 
 最後の2、3年は(心臓性ぜんそくで)とても苦しい時が続きました。だいたい毎年秋に一水会の公募展があるのですが、その審査をして、いったん帰ってから展覧会をしていた。だから年に二回は東京に車で行っていました。それ以外にもよく行っていたし、晩年は私たち二人が一緒に車で旅をしていましたね。(紘一さん)だから最晩年のころ、ちょっと具合悪かったんで、先生を置いて二人でゴッホ展見に行ったことがあったんです。(海部さん)寂しそうだったって紘一さんは言うんだけど、私は気づかなかった。(紘一さん)先生はもう一度ゴッホを見たかったはず。そのころはもう出歩くのは大変でしたね。車いすで連れ歩くのも大変だなと思って。(海部さん)亡くなる前2~3年は絵付けはしていました。1975年くらい、奥入瀬へ行ったときはまだ元気でした。楽しい旅でしたね。

 亡くなった時、先生は82歳でした。今の私と同じ歳。気分が明朗な人でしたよ。明快でね。物忘れるのは頭のいい証拠だって喜んでたから。私たちはぼんやりしてるから、先生は先が長くないということはわかっていたと思いますよ。だから夫婦養子も考えて。清水(喜久男)さんを連れて小松の法律事務所に私たちに後を託すということで遺言書を作りに行っています。後をちゃんとやらせたいというのはずいぶん考えていたと思う。紘一さんは標的にされたんだと思う。私が一人じゃね。橋立(父方のルーツである丹後一宮元伊勢籠神社)の方でもそれを待ってるみたいな状況だったから。あそこにお墓を作ろう、先生の面倒は全部みるからって言ってたの。ここでそんなのやれるわけがないって。叔父叔母は「親戚もなければ、何にも受け入れがないのに、そんなところに公子一人が残ってもやれるわけがない」って最初からそう思ってるから。先生はいずれ亡くなる。だからあの子に後をやらせようと。だから紘一さんをなんとか殿下って呼んでたよ。エリザベス女王の夫。(紘一さん)私がその位置関係にあるみたいでね。叔父は公子を引っ張りたかったんだけど、硲伊之助のところにいっちゃってね、自分と硲伊之助が争っているところに第三の男が現れて取っていったって。

最期の日に言い残したこと

 (海部さん)亡くなる時は20日間というもの、永井潔が仕事を休んで一緒に付き添ってくれたし、先生のおいやめいや親戚が会えるように連絡して、先生もそれをすごく喜んでくれました。にぎやかなことが好きでした。最期に言い残したことはありますけど、ちょっと私は公言すると弊害があるんで。亡くなる日にね、ほんとのことを言って、これは封印しとかなきゃというのはありますけれど・・・。絵のことです。絵のことで、私や紘一は未知数だと思ってたと思うし、家族だという気持ちがあったから、人にやたらにね、持ち上げたり絶対しなかったけれど、永井潔や木下義謙先生とか、ごく近しい絵描きやうんと近しいお弟子にも結構厳しいことを言って亡くなりました。肝心なところがわかってないと言いたかったと思うんだけど。それは私も先生が亡くなって、歳を重ねるごとに重いものになってきてるのよね。責任を感じるようになってきちゃったんですよ。私はそんなことで発言する気なんて全然なかったんだけど、ここへ来てやっぱり先生の仕事がちゃんと伝わるような角度を自分が押さえて、知っているならばよ、私がわかっているならば、私の言葉でちゃんと残さないと先生に申し訳ないかなと思うようになってきた。ちょっと無頓着だった、私。先輩画家がいると思ったから。

 先生はすごい物足りなかったと思う、肝心なところで。亡くなる日にね。他に誰もいなくなったところでね。今になったらね、先生の言いたいことはほんとによくわかるわ。だけど永井さんにしても木下さんにしても、他の人達にしても、先生のことを好きだったということでは一致していましたね。みんなに慕われてはいましたね。いやなことを言うんじゃなくて、ほんとのことを言いながら、ちゃんとした指導をしてるんだけど、相手がそこまで実感しなかったり、受け取り損ねてたり・・・一緒に暮らさないとわからないことが多いよね、人間は、みたいに私に思わせるような面がありますから、私にも責任があると思うようになって。だってそばにいたのに、それをちゃんと知らせて教えなかったのは私の怠慢にもなるんじゃないって、自問自答するようになってますよ。だから彼らの責任ばっかりじゃないし、人間ってそんなに完璧に生きられるわけじゃないし、ほんとにみんな目の前のことに追われるんですよね。

 (紘一さん)先生が自分の画論を木下さんや永井さんと直接戦わせる機会というのは日本という土壌では成立しなかったんですよね。特に木下さんにはいいところ、長所を見よう見ようとしていたんです。一緒にやってくれてるからね、九谷焼の制作を。一人孤独な中でね。最初から小松に一緒に通ってやってる仲ですよ。「木下くんの絵は新緑の緑がいいんだ」とか言っていました。永井さんに関しては、先生が写生してたのを見て、ふと「なんであんなに白を混ぜるんだろうなあ」と漏らしたことがありましたね。白を混ぜると絵の色が不透明になって、透明感を追求する、ハーモニーを追求する絵とはちょっと離れちゃうんですよ。そういうことを直接永井さんに言う機会はそれほどなかったんじゃないかな。戦争という空白の時代もあったからね。

(海部さん)最後は永井潔や先生の妹もいて。まだ息のある間に来られてね。すっごく最後は安らかでした。ものすごく顔もきれいになってね。デスマスク描いたんだけど、(1990年の)火事で焼いちゃったんだよね。亡くしたときの気持ちは、来るところへ来たという感じで、そんなに泣いたり騒いだりする気持ちじゃなくて、静かでしたね。心置きなくみんなと会えたし、先生がともかく喜んで自宅で最後を迎えることができたのはよかったなと思いますね。寂しくない最晩年だったと、自分も感じてたみたいですよ。幸せだって言ってた。みんなにありがとう、ありがとうって繰り返し言って。なんでそんなにまだまだ元気なのに、ってそんなありがとうって言わないでいいのにって思った人もいたみたい。

1974年ごろ。左から今井満(北陸中日新聞文化部記者)、海部さん、硲伊之助、弟子の中沢茂、永井潔


絵を通じて人間と直結していた

 先生はほんっとに絵しかなかった。絵しかないというか、絵を通じて、人間社会、この地球上に生きてる人間と直結してたというか、どういうありようが人間としていいのかということを求め続けたんじゃないかしら。だから探求者ですね、私がみる硲伊之助という人は。道を探る人。だからぶら下がってくるような人は困るんで。自分の感覚と考えを持って、自分に対峙してくれる人間が大事だったみたい。だから私の意見をすごく尊重してくれましたよ。歳とか関係ないの。これどう思う?ってすぐ聞かれたもん。一つの作品見てても、ここの色迷ってるんだけど、何色にしたらいいと思う?とか平気で聞くんだよね。こうしたら?っていうと、自分の考えに置き換えてる様子でした。

 (紘一さん)年を取ると、何かを作りたいというものが、なかなか出てこなくて、自分からモチーフを探そうという気持ちがあっても、すでに描いた物を違う角度から取り組むとか、そういう気持ちを働かせて次の作品に取り組むのはなかなか至難の業なんです。でも見てると先生は晩年にも大皿に果敢に取り組んでいました。(海部さん)それだけでなく、いろんな構想をもってたね。最後にはニューヨークの夜景が描きたいって言っていました。きれいだもんね、とらえようによっちゃ。

 一緒に暮らして20年でした。20歳から37歳まで。知り合ったのはその4年前。16歳。だから私の一生は硲伊之助の半生と重なっています。硲伊之助の50年と私の50年で100年がここに費やされている。古九谷美術館を目指して。古九谷美術館ができないということは、その100年がパーになるってことだよ。硲先生は最初から古九谷美術館を言っていました。あんなちゃちな並べ方や運営じゃなくて、もっと日本でね、あそこに行けば古九谷って、ここはなるだけの値打ちのある土地だって最初から言っていました。そうじゃなきゃ(移り住んで)来ないよ。

師の古九谷への思い

 (先生の古九谷への思いは)近代絵画と真髄が、背骨が一緒だってことです。それくらい新しさがあるわけ、古九谷のいいものには。それがわずかな時間なんですよ、そういうものが生まれたのは。庶民の
芸術なんだ。庶民の芸術が始まった江戸初期というのは、戦争をしなくなった、覇権主義をやめて、美を求めて結集した庶民が「浅黄裏」(あさぎうら、田舎侍をあざけて呼んだ言葉)とか言って覇権主義の連中をやゆしたりして、商人や町人が力を持ち始めたほんとに最初のころ、武士と町人が混合して力を合わせた最初の頃ですよね。それが歌麿とか春信が生まれる時代に入っていくわけだけど。覇権主義とは相容れない世界ですよ、美っていうのは。文化は。戦争のない世の中になるには、そういうものが先導するというか、そういうものが大事なんだと思う。人間やっぱり個々人が目覚めて、自分はちゃんといい自分になりたい、自分自身が変わりたいと思えば、そうすれば戦争なんて起きなくなる。野放しじゃだめだね。

 日本には平安以前から色彩絵画があるんだけど、それがさらに室町を越して、安土桃山文化では障壁画がすごく発展するし、宗達なんか出てくる土壌にもなるし、琳派が生まれ、みんな色彩の系譜で背骨になってますよ。古九谷もそこに属している、直結している。でもそいういう風に理解してる人が焼き物やる人たちの中に少ないのね。(古九谷は)有田から学んだ、有田から学んだって行っていますけど、そうじゃなくて、硲伊之助の考えは中国から直接ですね。中国から朝鮮経由とか有田経由で生地になったのもあるかもしれないけど、色絵の本質は中国、明の十竹斎箋譜(明末(17世紀前期)に刊行された木版多色刷りの画譜。後に日本の浮世絵に多大な影響を与えたとされる)とか十竹斎画仙(明末・安徽の版画家・胡正言)とか、そうい画仙の技法が、春信なんかが生まれる100年前に生まれてる。明の崇帝17代の頃。その頃の技術がそのまま多色刷り、錦絵として春信なんかが取り組んで開花させたの。それは中国本土よりも芸術性が高いんです。どういう点で高いかというと、春信がやったことは、バックを紅一色でつぶしたり、茶色で埋めたりと、一枚のタブローとして完成させた点が優れているんです。模様としてちょんちょんちょんと空間を埋めるとかいう意識じゃなくて、こういうお皿をキャンバスに見立てて、完成度の高い作品として成立させてる点が他の人と違って格調高いものになってるの。奥の深い物に、それだけ骨も折れて。

 歌麿はさらに素描が厳しいの。そして色もすごいんです。ロンドンの美術館に入ってるし、日本の絵画的な芸術の素晴らしさっていうのは欧米の人の目を、行き詰まった絵画の壁を乗り越えさせる力を持っていた。素晴らしいんですよ。それを先生と1964年に向こうに行って、貧乏な旅でも美術館を中心にくまなく見て歩けた。そして焦点が合った、あんないい勉強の旅ができたのは日本人でも私くらいだと思う。それを私は制作を通じて表現していかなきゃいけないと思ってる。先生は古九谷有田論争なんて、ばかばかしくて相手にしていなかった。私たちも首を突っ込まない。ばかげた、マスコミのあほさ加減がそこで露呈された。話題になったら飛びついて、その場限りでおしまいで、何の深まりもなければ、歴史感覚もない、無意味な論争という感じですね。どっちが本家だなんてばかげているし、そいうところにおとしめてしまっているのははなはだ残念だと思う。

古九谷と近代絵画は相通じる


 
 古九谷と近代絵画は相通じる。それは古九谷っていうのは色彩のハーモニーを追求したものなんですよ。それはゴッホの色彩絵画やセザンヌ、フェルメール、マティスにつながる、そういうものと古九谷の普遍性がつながるという話で、おおざっぱにはなかなかつかめない話です。色彩なんですよね。画面の調和を求めて色をつけていますよ。それ以外の目的、十字架なんかがあって色をつけてるわけじゃなくて、色をつけている時は全体の色が調和するように作者は色をつけている。
 
 その調和っていうのはどういうことかっていうと、関係のことなのよね。色と色の関係、そして全体の関係。人間だってそうですよ、人間の関係にも置き換えられる。関係が大事なの。だから関係ないよっていうのが一番ばかげた生き方というのにつながっちゃうよ。隣に置く色が問題なの。マティスはそれを厳しく感覚的にとらえていたから。先生にセザンヌの絵を横に置いて、色っていうのはこういうように置かないといけないって説明してくれたらしいですよ。
 
 私はセザンヌのことを調べて知るごとにあのじいさんがあんまり好きじゃなくなっちゃったんだけど、なんか子どもに石投げられてすごいかわいそうな貧しい絵描きみたいな印象持ってたけど、先生が書いてるものを読んだりしたら、結構饒舌なんだよね。ベルナールなんかに対しても、ああいうところはちょっとしゃべりすぎるというかついていけないところがあるんだけど。一つだけ私が学んだのは、セザンヌのまねしてると言ってもいいのは、ボラールっていう画商がいて、よくセザンヌのモデルになって描くのね。だけど百何十回かポーズさせて、とうとうできあがらなかったの。できあがらない上に、リンゴは動かないって文句言ってる。私もこれでいくわと思ったの。できあがらなくても、目指す物をもってるということでは、それを大事にすればいいんであって、焦ることないやと思って。

 だから自分の描いた肖像画なんかでも、これから取り組むものは全部そういう意識でやれる幅が広がったというか深まったというか、安心して書き損なったり、書き上がらなかったり、そういう試行錯誤は平気になれるなと思って。精神的に楽になったんです。それはセザンヌから教わった一番いいことだな、私にとって。百何十回もポーズさせておいて、リンゴは動かないって文句言うなんて。だから私はできあがらない絵がこんなにたまってる。それでもそこから離れる気が無くて生きてるっていうことを幸せに感じています。いやんなっちゃうんだよね、ちゃんとやれない生活は。今完全に機能してると言えないかもしれないけれど、目指してるところは水準が高いところに目標を置いてるので。だからたとえ息が絶えても、その気持ちを受け継いでくれる人がね、出てくるはずだと思ってるから。それを共有できると思うと、人間というものに希望が持てるし、楽しいです。だから目をつぶるまで、私はあきらめない。よろしく(笑)。(続く)

仕事場と食卓が並ぶ室内。ランプシェードはアトリエの焼け跡から持ち出した


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