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万年一年生のコメ作り/農業は産業として程度が低い、と言われた話

5月上旬、田植えを終え、いよいよ米作りが始まった。
今年で4回目の米作りだが、昨年は諸事情により断念した。

このnoteでは筆者が岐阜県恵那市に移住して12年の農村暮らしから見えた視点をお届けしてます(所要時間3分)。


”みんなでコメパ”を目標に再チャレンジ

一時期、有機農業を志し、栽培から販売まで本格的に農業をやっていたことがあるが、経済的・身体的理由で断念した。
しかしコロナ禍を機に、コメは自給自足しようと、休ませていた畑を再び田んぼに戻した。

1年目はビギナーズラックと言われたぐらいよく採れた。しかしどうもこれは畑として使っていたころの残肥が効いていたようだ。
2年目には草の管理が追いつかなくなり、1年目の半分にも満たない収量となった。
3年目には完全に草に負けてさらに収量が減った。収穫のときコンバインを出してくれた人にも呆れられた。
4年目となるはずだった昨年は、要はヘタレて、田んぼに向かう気力がなくなっただけだ。

草だらけの田んぼ

今年作らなくなったら、またあきらめてしまうことは我ながら自覚のあるところだったので、とりあえず苗を注文してしまい、やらざるを得ない状況を作った。

専業米農家さんと比べれば雀の涙ほどの田んぼだが、それなりの広さの田んぼだ。一度作ろうと始めると、一人でやろうとすれば結構な労力と時間をとられる。できもしないのに無農薬で作ろうとするからなおさらだ。

しかし今年は、近所の友人が募って、一緒に米作りしたい、という主に地域の外の人たちとつながることができた。さっそく田植えにも来てもらい、機械で植えられない箇所を補植してもらった。これだけでもだいぶ助かる。

あいにくの雨模様の中、田植え中

これから収穫までは、草との闘いになる。自分の参加できるペースでいいので、草取りを一緒にやってもらえれば自分も作業を楽しむことができそうだ。

収穫したらみんなで「コメパ」(米パーティ)しようと盛り上がっている。

大変さを楽しみに変える工夫というのも、小さな田舎の農業には必要になってくるのかもしれない。

本来コメづくりとはそのような集落の協働として、お祭り的な楽しみの場も設けられていたはずだが、戦後の個別化によって失われた地域も多い。

今各地で、地域を飛び越えた現代的な「結(ゆい)」というのが興り始めているが、この現象はまるでコメによってつながりを引き戻されるかのように見えて、おもしろい。

農業は産業として程度が低い、と言われた話

名士からの一言

そういえば、オレが本格的に農業をやっていたころ、市内のとある会合で、とある名士的な方から

「農業って産業として程度が低くないですか?」

みたいなことを言われたことがある。

曰く、「農業は播種から収穫まで一年に一回ずつしか栽培のチャンスがない。そのような産業は成長が遅いし、これからの時代にそぐわない」といった感じのことだったと記憶している。

そのときは自分は都市部からの移住者として紹介されて、地元の人にとっては大した規模にもならず街としての成長の足を引っ張っているように見える農業をなぜわざわざやりにくるのだと不思議な思いだったのだろう。

この時オレは「はぁそうですか」としか返せなかったのだが、農業がこの地域の豊かな文化を作っていると感じていたオレには、地元の人からそのような言葉が出てきたことに、かなり戸惑った覚えがある。

1年に1度のサイクル

確かに稲作などは二期作でもない限り、一年に一度の栽培サイクルであることに違いない。

1年に1度っていうのは自然の摂理であって、それを人間が速めることなどはできない。そのうえ、そのサイクルの中で毎年同じ条件になることなどなく、複雑きわまりない自然の仕組みに従うしかない。

非合理きわまわりない自然を無理にコントロールしようとして、農業に対して近代産業としての機械化や工業的な合理化や効率性を求めるのであれば、「緑の革命」のように収量を上げたら環境負荷が過大になってしまった、という近代農業の一面を見なければなるまい。

まあここら辺の農業はもとより自家消費+αぐらいなものがほとんどで、産業なんて意識もなく、のんびりやっている「営み」としかいいようのないものだ。

失敗が続いたときに、「百姓は万年一年生だから」となぐさめてくれる100歳近い爺さんをはじめとした近所の方々の存在にとても救われていたのだ。

2000年以上続く”産業”

もう一方で、産業の定義を本来的な「生活に必要な物的財貨および用役を生産する活動」(小学館デジタル大辞泉)とすると、特にコメづくりは日本で2000年以上続いている立派な「産業」だ。

こんなに長く続けてきた産業なんて、他になくね?と言いたい気分もある。

言ってみれば日本中で膨大な実証を重ねてノウハウが蓄積されている産業である。コメづくりを受け継ぎ守ってきた農民たちの工夫や改良の末、今がある。

このミクロな一回性と、マクロな循環性という、二面性が農業の本質であり、そのことが持続可能性を生み出してきたと言える。

持続可能性とは、単にシステムを構築し繰り返すことで達成するものではなく、常に変化に適応し、改善を重ね、循環させていくことで初めて持続的に機能するものである。

これは、単に農作業に関するだけではない広範な話である。農業は、環境保全やコミュニティ形成、文化継承、食料安全保障など、地域から国レベルまでの多面的な役割まで含めて「農業」の範囲であり、多くの人々が協力し、知恵を集めてはじめて持続可能性が循環しえるものだと思う。
つまり、もう日本人全員が農業のことを真剣に考えてほしい、と思う。

むしろ、本来すべての産業がそうである「べき」であり、本質は変わらないものだろう。

ほとんどSDGsみたいな話だが、多くの人が社会のあれこれを多角的に考えていくことが、全体の持続性を底上げするためのスタートであることは確かだろう。

先述の名士に今返す言葉があるとすれば、

「他の産業こそ農業を見習ったらいいんじゃないですか?あと2000年続けましょうよ」

て感じだろうか。


我が家の持続可能なコメ作りのために、草取りを協力してくれる方々はぜひご一報を。コメパやりましょう。

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