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田舎のおすそ分け考 ~キュウリとキュウリの交換に意味はあるのか~

今住んでいる田舎の集落では、「おすそ分け」の文化が色濃く残っている。
移住前の住宅地でも自分の親がときおりお隣にお土産ものなどを持っていくのを目にはしていたが、田舎のおすそ分けは訳が違う。

主なおすそ分けの品と言えば、自家用で育てた野菜が圧倒的に多い。ほとんどの家で自家用というには広すぎる面積の畑を持っている。特に直売所に持っていくこともなく、そこに土があるから植えている、という感じなので、夏にはトマトやキュウリ、秋冬には白菜など、食べきれないほど収穫する。

そこで、ご近所におすそ分けする。もらった方の家もたいてい育ててる野菜ばかりなのだが、それはどちらもあまり気にしない様子だ。なんならキュウリを持っていったら相手のキュウリをもらって帰ってくる、なんて漫画のようなことが実際に起こる。

このnoteでは都会暮らしの筆者が岐阜県恵那市に移住して10年の農村暮らし経験に加えて、30年以上のドラマーとしての音楽経験(仕事レベルで)や登山経験(登山店勤務経験あり)、アフリカでのワークキャンプ、地域おこし協力隊、有機農業、現在は夫婦でEC運営、といろんな畑を歩んできた自分の経験からお伝えできるトピックを発信しています。元岐阜県移住定住サポーター(現在制度は解消)。(所要時間3分)

おすそ分けの基本形態

冬場は漬物がメインで、各家庭の味付けが食卓に並ぶことになる。我が家ではキムチを毎年漬けているが、他ではあまり作らないらしいので人気らしい。そうなるとお返しは手作りケーキになったりして形を変えてくる。田舎ネイティブの妻曰く、おすそ分けとは手間のかけ方に応じた交換が基本型らしい。

隣の90過ぎのお爺さんからは、毎年自家栽培のもち米をいただく。正月はこれで餅をつく(機械でだけど)。たくさんできるが、やっぱり食べきれないので、またお爺さんにおすそ分けする。お爺さんはお爺さんで自分で餅をついているし、まして90過ぎなのでご自分で食べてるとは思えないが、何も疑問なく、受け取る。聞けばさらにご親戚などにおすそ分けしているらしい。交換したものが巡りめぐっていくというのも何だか面白い。

誰か近所の人が立ち寄るときは手に何か持ってくるし、帰り際には「これ持っていって」と何かしらのものをおすそ分けする。妻はよく作り過ぎた料理をもっていったりする。それほどに暮らしの中でごく当たり前に営まれている。

基本的には身の回りにあるなんてことはないものを交換しあう感じだ。先ほど挙げた、キュウリとキュウリの交換のように、一見無意味に思えるものもある。得とか損とか、そんなことは気にせず、お返しは大きすぎないよう気を遣って、お返しが来た時にはこちらが若干の損をすることさえ厭わない。

おすそ分けは人間の自然な習性

どうも人間というのは「交換したがる生き物」だということを何かの本で読んだことがある。「価値のあるものを交換する」のでなく「交換するから価値が生まれる」とも。つまり交換そのものに価値があるし、交換は関係性を平和的に保つための知恵なのだそうだ。

よくこうした田舎ならではの風習は、日ごろから小さな交換をし続けることで、いざというとき、例えば災害などのときに快く助け合えるから大事なのだ、と言われる。それはその通りだろう。しかしそんな目的を意識している様子はない。本当にあげたりもらったりが嬉しい、そんな気持ちが伝わってくる。

驚くことに、これは人間だけの習性ではなく、人間に近い類人猿もある種の交換を行っているらしい。それくらい染みついた習性なのだから、おすそ分け文化を「これうちにあるし」とか「またなんか持っていかなくちゃいけないじゃん」と若干疎ましく思うのは如何に自分が不自然な生き物になってしまっているかを物語っている。

労働力のおすそ分け

この交換的行為、おすそ分けは、何も食べ物ばかりではない。町内会の活動や、草刈り、雪かきなども労働力のおすそ分けと言えるだろう(もちろんそれをおすそ分けと呼ぶわけではないが)。
妻は隣のお爺さんと幼いころから慣れ親しんでいるから、今では独居となったお爺さんが時折買い物行きたいとか、病院行きたい、というときに車に乗せて連れて行っている。無論毎日ということでもなく、だいたいはご家族が様子を見に訪れたときに済ませているのだが、そのタイミングが合わない時などにお呼びがかかる。
車で送ってあげたからといって見返りを期待しているわけではないし、苦に思っている様子もない。ほぼ無償の提供なのだが、妻にとってはそれが嬉しいらしい。もしかしたら幼少から面倒を見てもらったことへのお返しの気持ちなのかもしれない。そう思うとこれも交換として成り立っている。

コスパから見るおすそ分け

正直、いつ起こるかもわからない(起こらないかもしれない)もしもの時のために、こうした交換を積み重ねるのはなかなかの負担である。日々を平穏に過ごす、という目的のためであればなおさら大幅にコスト超過な感じがする。つまり「損している」気分になる。
都会にいれば、何もしなくたって普通に暮らせる。ご近所との関係をつくる必要もない。おすそ分けなどしようものならかえって疎ましがられかねない。これはこれで損もないし得もないが、自然としての人間性もない?

田舎に暮らせば、何もしないことが損になる可能性さえある。つまり当たり前のことができない人、という評判となる。それを避けるには結局コストをかけ続けなければいけない。他人と関係することそのものを「得」と思えなければ、なかなかツラい所業である。

君は何をおすそ分けするか

しかしである。ふと思い返す。
オレは、人と人のつながりが残る暮らし、に憧れて移住したのではなかったか。それを成立させているのが、まさにおすそ分けなのだろう。
そしてこのような関係性は、田舎に残る古民家のように一度壊れたら、簡単には戻らない
壊れる原因は、例えば過疎化だったり核家族化だったり、いろいろだが、移住者のような外部が運んできた”風”も影響するのかもしれない。
よく移住者の悩みで、隣の人がいきなり家の中に入ってきたりするのが嫌、プライバシーを尊重して、という声があるが、いちいちチャイムを鳴らして玄関の前で待つのはスムーズなおすそ分けを妨げる。おすそ分けには家がオープンであることが不可欠なのだ。
オレのような移住者は、自分にとって心地よい生活が、ある種の破壊行為になっている可能性を鑑みながら暮らさないといけない。

オレはみんなにあげられるものを持ってるのかな。

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