見出し画像

11回目の冬至も寒かった ~季節感と暮らし~

12月半ばまでやけに暖かい日が続き、冬に入ったとは思えないでいたが、ここ数日でぐっと冷え込んできて、いよいよ本格的に寒くなってきた。
岐阜県恵那市に移住して10年以上経つが、ふるさとである横須賀の温暖な気候で育った身としては、氷点下を平気で下回る恵那の冬はとても身に応える。

このnoteでは筆者が岐阜県恵那市に移住して11年の農村暮らしから見えた視点をお届けしてます(所要時間3分)。


季節の変化に身体が気が付く

というよりも、恵那に来てはじめて横須賀が暖かったのだと気が付いた。
年始年末に実家に帰省すると、ダウンジャケットなどはちょっと過剰に思えるほどである。
恵那の家が古いこともあり断熱とは無縁の部屋にすきま風が入り込んでくるからか、寒くなっていくのにも暖かくなっていくのにも敏感に変化を感じるようになる。

この記事を書いているのはまさに冬至にあたるのだが、街灯もない外の明るさが日に日に短くなってくるのがよくわかる。
何か温度や明るさを感じるセンサーの目盛りがより細く測れるようになってきたのかもしれない。

面白いことに、3月上旬にもなると啓蟄という暦を迎え、もともと土の中で虫が動き出す日とされているのだが、人間もしっかりこの日を境に外仕事に精を出し始める風景は壮観だ。
ご年配の方は暦に合わせているのかもしれないが、寒さにメンタルが影響を受けやすいオレが冬鬱から立ち直っていくのもこの日が境だったりして驚いたこともある。
お盆も同様、これを過ぎるととたんに暑さの角が取れる感じがする。暑いのに変わりはないのだが、質感が変わる。

食べ物は季節で違うことに気が付く

ちなみに我が家では冬の間、ナスやピーマン、キュウリ、トマトなどの夏野菜はほとんど食べない。
別に自然の摂理に従ってなどという大仰な話ではなく、家で育てている白菜やダイコン、カブなどが大量にあるから、わざわざ野菜を買う必要がない。
当然我が家の夕食のメニューにおける鍋率はかなりの頻度だ。それがまた美味い。

あるものを食べる、というだけの話なのだが、これを毎年繰り返すようになり、冬にナスやキュウリを口にすると何とも言えない違和感を覚えたりもする。横須賀に住んでいたころは何も思うことなく口にしていたのに。
ただの思い込みなのかもしれないが、季節の食べ物に合わせた食生活を繰り返したことで、あまり欲しない、という感覚が生まれてきたのは確かだ。

冬至にはかぼちゃを食べる、というのが昔から伝わる習わしで、今年もかぼちゃシチューを妻が作ってくれたので食べた。
かぼちゃは夏野菜だが保存が効くので、冬に不足しがちな栄養を補うという昔からの知恵だと聞く。
別にかぼちゃは人の健康のためにそのようにできているわけではない。保存が効くから、重宝されてきたのだろう。

ナスやトマトの夏野菜は身体を冷やす効果が、ダイコンやカブの冬にとれる特に根菜系には身体を温める効果があるらしいが、人のためにそのようにできたわけではなかろう。品種改良によって特定の成分が増すことはあるかもしれないが。
むしろ進化学的に言えば真相は逆で、人間が得られる食物に合わせて身体が適応できた個体が生き残ってきたのかもしれない。

季節の変化を感じることが豊かだと気が付く

季節の移り変わりに敏感な感覚が育ってきたのだろうか。確かにこの感覚は百姓仕事をしたりするには役立つ、というか必要なものだろう。季節に合わない仕事を無理にすればすぐ心身にあらわれるのは経験済みだ。

都会の冷暖房の整った環境で暮らし働く分には、寒暖の変化に身体を合わせる必要がないから季節にあった食生活などしなくても、ほどほどにしておけば健康を保てるかもしれない。

どちらが偉いということではないが、田舎に暮らし続けると否が応でも敏感になってくるが、それはちゃんと身体が適応しようとしているのだろう。

田舎に住む誰もがそんな風でもないだろうし、都会に住んでても敏感な人もいるだろうが、オレはそもそも様々な面で鈍感な方なので、あのまま都会に住み続けて、さして寒くもないのにダウンジャケットとアンダーシャツを着こんで、冬にキュウリ食って夏に葉野菜食おうが、なにも不都合なく生きてはいけたと思う。

でも今、夏のナスがとてつもなく美味いと感じたり、冬の朝の霜を踏んだ感触を楽しんだり、そういうことに豊かさを感じるようになったのは自分の人生において大きな転換点と言える。

どちらの人生も味わい深くそれぞれが祝福されていればいいと思う。
オレは都会も好きで、都会には都会の滋味があると思う。

でも、どこかでお互いの知らないことを少しでも味わえる機会があれば、世の中もう少し生きやすくなる気がするし、世のなか支え合って自分の暮らしがあることも知れる。

知らないことを知ることとは

コロナ禍が一応の鎮静を見たことで今年は人との交流の機会が戻ってきた。我が家でも田植え体験なり子どもの自然体験なり、いろいろな人に我が家なりこの地域の暮らしを体感してもらった。

春の田んぼの泥の温かさ、夏に入る川の水の冷たさや流れが身体を押す感覚、とれたての野菜のみずみずしさ、寒さで池に氷が張ったその硬さ。
あるいは、古民家のしっとりとした手触り感や薪風呂を焚いているときのに匂い。
あるいは、ともに田植えをした地元の人のやさしさや厳しさ。
そうした肌に刻んだ感覚がきっと普段の暮らしに戻ったときにも、あそこには今この瞬間も人が暮らし、自然が息づいている、という実感につながるのではないだろうか。

それが両者が手を取り合って違いを認めて共に歩み一つの社会を築くための第一歩だというのは、10年の田舎暮らしを経て得た確信である。
来年はさらにこの環境を活かした交流や学びの場を開いていこうと考えている。

…まあそんな大げさなことではなく、寒いとやる気がでねえーという毎年の繰り返しを正当化するためのこじつけである。

恵那の「凍みる」冬の寒さを感じたい人は、ぜひ我が家へ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?