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孤立する性的マイノリティ 教師たちはなぜ性の問題を避けるのか


前回の記事では、LGBTの発症率が20人に1人の割合にも関わらず、学校での取り組みがなかなか進まず、それが「いじめ」や「不登校」、「自殺」の問題につながっていることを述べた。

今回はそうした問題を踏まえ、日本の「性の歴史」にスポットを当てながら、教職員たちがなぜ「性」の問題を避けようとするのかを明らかにしてみたい。


性的少数者の問題を考えるのに、なぜ日本の「性の歴史」が必要なのか?

それは私たち日本人の「性」に対する見方や考え方が「絶対的」なものではなく、それぞれの時代で変遷しながら築きあげられてきたものだからだ。

日本人がどのように「性」を扱ってきたのかを明らかにすることで、私たち日本人の多くにしみついている「性」に対しての「常識」や「固定観念」を取り払うことができるだろう。


学校では語られない日本社会における「性の歴史」

日本はかつて「男性同性愛」に対しては許容的な社会だった。

その歴史は古代の天皇家から始まり、奈良・平安時代の寺院、平安末期から鎌倉時代には公家を中心に広まっていく。

室町時代から戦国時代にかけてはその傾向が武士の間に広まり、江戸時代には「文化」として全盛をむかえることになる。

しかし、その傾向は明治に入ってから急速に衰えていくことになる。

明治5年(1872年)11月、「鶏姦律条例」(肛門性交を禁じる法律)が発令。

翌明治6年(1873年)7月10日施行の「改定律例」(改正犯姦律 犯姦条例)第266条では「鶏姦罪」として規定し直され、違反した者は懲役刑とされた。

この規定は7年後の明治13年(1880年)制定の旧刑法には盛り込まれず、明治15年(1882年)1月1日の同法施行をもって消滅したが、その後も、古くから日本で行われていた「男性同性愛」を異端視する傾向は続いていく。


明治42年(1909年)に発表された森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』では、性行為が直接描写されていないにも関わらず、政府から卑猥な小説だと考えられ発禁処分を受ける。



こうした「男性同性愛」を異端視する傾向は、明治に入って急速に進められた「近代化」と密接な関連がある。

当時の日本の学者や教育者の大半は旧ドイツのプロイセンを手本として学んでいた人が多かった。

その結果、同性愛をソドミー(「不自然」な性行動)として罪悪視していた西洋キリスト教社会の価値観や、

同性愛を異常性愛に分類した西欧の近代精神分析学の影響が日本でも徐々に広まっていくことになる。

性的な描写が一切含まれていない森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』が発禁処分を受けたことは、そうした「男性同性愛」を異端視する思想が、少なくても明治42年(1909年)頃には社会的に定着していたことを示している。


日本で再び「性」の問題が大きくクローズアップされるのは、約60年後の1970年代に入ってからだった。


1971年、日本で東郷健という方が参議院議員選挙に同性愛であるということを公表し立候補したことで、テレビや新聞、雑誌を中心にマスコミから大きく取り上げられることになる。

以後、日本では性的少数者の活動が活発になっていく。


1971年、日本初のレズビアンサークル「若草の会」が誕生。

同年、商業ゲイ雑誌として日本初の薔薇族が創刊。

1976年には、日本でゲイ団体(日本同性愛者解放連合)も結成。

1988年に掛札悠子が日本で初めてマスコミに自己のセクシャリティを告白。

1992年には公に出版された日本で初めてのレズビアン・ゲイの情報ガイド『ゲイの贈り物』が発売。

1994年には東京レズビアン・ゲイ・パレード(TLGP)が行われる。


こうした一連の活動は、明治初頭から100年以上続いてきた「同性愛」への差別や偏見に対する反動として起こったものとして考えることができる。

同様の運動は海外でも盛んに行われ、1990年代以降に「性的少数者」が社会的に認められるきっかけにもなっている。

しかし、日本の場合は、依然として性的少数者に対して異端視する傾向は根強く残ったままだったようだ。



当時の文部省では「同性愛」を「性非行の倒錯型性非行」として問題視していた。

「この同性愛は、アメリカなどでの”市民権獲得”の運動もみられるが、一般的に言って健全な異性愛の発達を阻害するおそれがあり、また社会的にも、健全な社会道徳に反し、性の秩序を乱す行為となり得るもので、現代社会にあっても是認されるものではないであろう。」
文部省発行の「生徒の問題行動に関する基礎資料-中学 校・高等学校編-」(1979年1月)より抜粋


この「同性愛」を「非行」行為とする記述は、1986年に削除され、1993年に入り「不適切」な記述だったとして認められることになる。

その頃、海外で活発になってきた「性的少数者」の運号の影響もあって、日本でもようやく同性愛者に対する考えを改めようとする動きも出てくる。


しかし、「同性愛者」、及びその他の「性的少数者」に対する差別や偏見は、1980年代以降に起こった「エイズパニック」によりいっそう激しいものになっていく。

当時はエイズに対する正しい知識がほとんど広まることなく、「エイズは男性同性愛者特有の病気」という誤った情報が広く浸透していった。

その結果、同性愛者やその他の性的少数者に対して、より厳しい目が向けられるようになっていく。



現代では「エイズ」に対する正しい知識がある程度広まってはいるが、当時の「エイズ=同性愛者の病気」という偏見はまだ完全に消えているとは言えない。

とりわけ、1980年代から1990年代に幼少期・青年期を過ごした年代の人は、「同性愛者はエイズの原因」だという誤った情報が潜在的に刷り込まれている可能性がある。


この1980年代から1990年代に幼少期・青年期を過ごした年代というのは、今学校でベテランの域に入って活躍している30代から40代の教師にあたる。



教師たちが「性的少数者」を理解しようとしない理由

ここで再び、教職員の間で「性的少数者」の理解が進まない理由を考えてみよう。

これまで述べてきた事実をもとに考慮すれば、この年代以降の人たち、つまり30代から60代の教師たちに向けて「性的少数者」の理解を求めるのは非常に困難を伴うものになることが分かる。

なぜなら、彼らは、明治初頭から約100年以降脈々と受け継がれてきた「同性愛=異常」という固定観念のもとで、親や教師たちから教育をうけてきたうえに、「同性愛者=エイズの原因=悪」という観念が無意識のレベルで定着していることが多いからである。

文部科学省がいくら教職員向けの手引を公表して性的少数者への理解を促しても、教職員たちが積極的に取り組もうとしないのは、まさにそうした理由による。



私たちは少なからず長い歴史の中で形成されてきた道徳や思想の影響を受けて生きている。

「性」に関しても同様で、長い間支配的だった「性」に関する常識や固定観点がそのまま私たちの「性」に対する考え方につながっている。

また、幼少期や青年期の間で「性」に対して抱いた潜在的な「イメージ」は、その後の人生において多大な影響を与える。

もしもその時期に誤った情報が刷り込まれれば、それを取り除くことは容易なことではないだろう。

「性的少数者」に対する理解がなかなか進まないのは、こうした二重の要因が複雑にからみ合っているからにほからない。



しかし、性的少数者の問題が浮上した今、これまで通りに「性」に対して沈黙し続けるわけにはいかない。

私たちは自らの「性」に対する見方や考え方が、どのように成り立ち、絶対的なものだと信じて疑わないようになったのかを振り返ることで、改めて「性」について考える必要がある。



性的少数者の問題から目を背けることは、生徒を孤立させ、「いじめ」や「不登校」、「自殺」などを引き起こす原因にもなる。


教師として、また一人の人間として、そのようなことに目をつぶるようなことは断じてあってはならない。(続く)



参考:

<Wikipediaで調べたもの>

日本における同性愛

ヰタ・セクスアリス


<ウェブサイト>

ゲイやレズビアン:性的指向の自由は「21世紀の人権」

http://www.nippon.com/ja/currents/d00174/

★文部科学省(旧・文部省)と同性愛

http://www.geocities.jp/watarugay2/edu.htm


前回の記事>

孤立する性的マイノリティ 今 学校で何が起こっているのか


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