社会で揉まれるという事。
花は折れていた。
緊急事態宣言禍の中、僕は満員電車に乗った。月曜日の午後6時半。会社から帰宅するサラリーマン達に紛れる。久し振りの満員電車で、マスクをしているせいもあったのかすぐに頭が痛くなる。自分の身体の敏感さを思い出した。リモートワークの文化が去年の緊急事態宣言時と比べて定着していないというニュースを思い出し、少しイライラした。
僕は満員電車の中で撮影で使った花瓶に入った一輪の花を手に持っていた。心なしか周りの人が僕を見ているような感じがしたけど、多分それは気のせいだと思った。花の名前とか花言葉みたいなのは購入する時に店員さんに聞いたけど、もう思い出せない。っていうか思い出そうともしていないのかも知れない。ただ沢山あった花の中で一番綺麗な姿勢で際立った色味をしていたように感じたからそれを選んだ。
満員電車の、乗り降りのタイミングは一番車内が動く瞬間だ。電車に乗って自宅の最寄り駅まで複数の駅を通るのだが、どこかの駅を出発したタイミングで気が付いた。手に持っていた一輪の花は折れてしまっていた。人が沢山入れ違った時にぶつかってしまったのだろう。別にそこまで大切なものだった訳ではないし花はすぐに枯れて無くなるだろうなんて考えてたけど、何故か悲しかった。何だか社会の冷たさを感じた。自分の”気付かない”うちに誰かの生命は絶たれている。自分の”気付かない”うちに誰かの希望は誰かによって絶望に変えられている。そこに忖度や感情は関係が無い仕方がない事。
希望を持って社会で生きていても、いつかは挫折する。目立とうとすれば笑われ、夢を語れば笑われる、行動を起こそうと思えば咎められ、やがて希望は絶望に変わる。人は人の心を折る事を無意識に行う。無意識というだけで悪にされない正義。だけど、絶望は希望に変えることも出来る。
花は一度折れるとすぐにもう枯れるものだと思ってたけど、諦めないでさえいればきっともう一度輝けるんだと知った。おこがましいかも知れないけれど自分が生きる限り多くの人を救いたいと思った。
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