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【コラムエッセイ】推すという奢り

なぜ人は崇拝するのだろう。

アイドルの和訳が崇拝と知った日から日常にはライトでポップな信仰が根付いていて無宗教だからと前置きする私を含めた多くの日本人にも崇め奉る信仰対象は確実に存在することを思い知らされた。

時代と共に両者の呼び名は変化していった。

江戸時代に遡れば「あんた、あの歌舞伎役者に随分お熱だね」や「ほの字だね」がそれにあたるのだろうか(知らんけど)

昭和の空前のアイドルブームでは親衛隊なるものまで結成され、掛け声の練習に一致団結し汗を流した者もいただろう(時には喉から血を流したかもしれない。知らんけど)

今では崇拝する対象を「推す」としてファンはそれらの活動を推し活と称してアクリルスタンドや写真を買ってお金を落とす。
そう、お金を使うではなく落とすと表現しているのだ。
もはやアイドルを養っている、育成している感覚に近い(者もいる)


人は崇拝している時だけ現実を忘れられる。


引き寄せられて気がつけば信仰している。
それが「ファン心理」「推し活」

「推しは推せる時に推せ」
崇拝対象が人である限り飯も食うし光熱費も払わにゃならない。
だって生きているのだから。

「推し」という言葉が定着してなかったころ、ファンはアイドル(崇拝相手)を追っかけて、テープを投げ、絶叫し卒倒した。

レコードやCDが出れば買って聴いて没入した。
ポスターを手に入れる為に商店に頼みにいった。
それはみな賽銭箱にお金を入れありがたがって手を合わせていたことに似ている。

明らかに崇拝相手を敬っていた。

呼び名が変わってきたことでもしかしたら「崇拝」と「信仰」の関係性が崩れたのかもしれない。

「推す」が蔓延して席巻している現代ではあるが私は「推す」より「ファン」でありたい。



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