【エッセイ】さらけ出す≠不幸自慢

詩とエッセイの両立はいかにスイッチを切り替えられるかが鍵になる。
詩は幻想(ファンタジー)でエッセイは現実(リアル)だ。
どちらも自由な散文という共通点はあるが、ノットイコール(≠)の仲だ。

私は要領も悪いし、順応性も低く、切り替えが下手な自覚がある。どちらかに没頭するともう片方への方向転換がとても困難になる。
それでもどちらも書きたいし書けるようにならなければいけない。
物書きの需要に柔軟に応えたい。
自由な散文という共通点一本でいい。一点突破したい。


今まで色んなものを書いて(描いて)きた。
まだ振り返る位置に立っていないが、それなりに歩んできた足跡はある。

映像シナリオ、はじめは2時間の長編ものから入り次第に1時間もの、30分もの…と、短編へ移行していった。それは自然な流れだった。
自分には短編が性に合っていることも書いていくうちにわかっていった。やってみないとわからないことがまさにこういうことと実感した。

それは逃げなんじゃないかと問われれば違うと否定できる。
小説は書けない。
書かないんじゃなくて書けないのだ。
書けないなんて逃げなんじゃないかと問われればこれもまた違うと否定できる。(被害妄想が過ぎる)
書きたいものに書いていくうちにたどり着けたのだ。
はじめは何でも書いてみたかったし書けると勘違いしていた。(坊やだったからさ…認めたくないものだな)
当たり前だが結局書けなかった。
そうやって肌に合う直感的にこれだ!というジャンルを手探りしていく中で導かれるように収まったのが「詩」だった。
私は詩にやっと落ち着けた。そこは安心できる場所となった。私の帰る場所となった。こんな嬉しいことはない。

散文詩を書くことが多くなったのも今までのシナリオや回り道をしてきたことがいかされているからだと気付いた。私の10代、20代は無駄ではなかったのだ。
だから自由な散文のエッセイも時々書きたくなる。何でも書きたいという名残りとして。
詩という居場所があるからエッセイも書いてみようと思える。書いているともっと上手く書きたいと思う。どうしたら上手くなれるかなんて沢山書くこと以外ないこともわかっている。
だからみっともない出来でも全然なってないものでも恥をさらして発表する。その積み重ねしかないと思っている。(お目汚しをご容赦ください)

最近、エッセイについてよく考える。
エッセイといっても幅広い。お固い笑いどころもない指南書みたいなものもエッセイだし、ふんわり抑揚のない日誌のようなものもエッセイと分類される。書店によって違うが自己啓発のコーナーに読んでみたいと思っていた方のエッセイが置いてあったり、ノンフィクションという棚にあったり、もうシェフの気まぐれランチのような自由さである。そこがいいのだが。

私の好きなエッセイは(エッセイとはこういうものだと思っているものは)自虐あり、悲哀あり、斜に構えた見方ありのちょっぴり毒っけを含んだ文章である。
そこには否応なしに著者の恥部や黒歴史的、いわゆる自己開示の晒しが伴う。
それはとても勇気ある創作行為だ。

僕のマリさんという文筆家の存在を知ったのは私の好みにあうエッセイを書かれるこだまさんが僕のマリさんのエッセイをおすすめ本として紹介されていたのがきっかけだった。

こだまさんが紹介するものにハズレなし!と、名前の覚えるのが苦手な私でもすぐに覚えることができてそうそう忘れることもない「僕のマリ」さんという作家さんの本を読んでみることにした。(名前って重要)

『常識のない喫茶店』からまず手を出し、そして『書きたい生活』を続けて読んだ。

こだまさんがおすすめするのも納得だった。

実に面白くて大抵の人なら溜め込むであろう腹の中に収めるべきとされていたものを清々しいまでに代弁してくれていた。
接客業をしていた人なら物凄く頷ける内容。
私も僕のマリさんと同じ考えを持っている側だった。

あなたのような人間は他の店で相手にされず流れ流れてうちの店に来てるんだろうなぁと思わせる客と数えきれないほど遭遇してきた経験が私にはあって、うちでもあなたのような客は勘弁ですと出禁までは無理でも店員である自分にこんな嫌な思いをさせるその客に無理をしないといけないようなお客様扱いなんかしないぞと態度で示していたことを思い出していた。
あんたみたいな客でもどこか行き着く店があるはずだからさっさと見つけにいきなと心で願ったものだ。

私は僕のマリさんのエッセイを書く姿勢(エッセイと真剣に向き合う姿勢)に心打たれた。
僕のマリさんもこだまさんと同じように文フリで才能を見出された作家さんだということも知った。野心ではなく純粋に書くことが好きなことが伝わった。
そして今の私が考え答えを求めていることに光を差してくれた。その光に照らされたヒントを目を凝らして見つめた。

さらけ出すことについて。それはどこまでをいうのか。全てとは文字通り全てなのか。
そんなエッセイを書く覚悟について考えさせられた。
私はどこまで脱げているだろうか。
素っ裸にならないとエッセイは書けないだろうか…。

私は違うある作家さんの痛々しいまでのさらけ出しを読んだことを思い出した。
正直自虐を通り越して笑えなかった。
苦しくなった。なぜあなたの苦しみをわけてもらわなければいけないのか…頼んでもないのに。
私にはこんな辛い思いをした私(著者)ってすごいでしょ?としか受け取れなかった。
すごいというのは同情してほしいのと、何より自慢に聞こえたのだ。

不幸自慢。

私は不幸自慢が苦手である。
いかに我が身の不幸を笑いに昇華させられるかがエッセイの腕の見せ所だと思う。不幸を糧に身を削る文章を書く。不幸を自慢してはいけない。

全裸で血だらけで涙も鼻水もたれ流しながらこちらに駆けてこられても恐怖でしかない。
さらけ出すことと不幸自慢は別物だから。

私はエッセイの旨味をこだまさんにも僕のマリさんにも教わっている気がしている。
心地よいエッセイの旨味。
調理方法を私はもっと学んでいきたい。

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