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心を凪にする。―弁護士に聞く「批判」への考え方―

Twitterの通知欄にぽこっと数字がついたので、タップする。誰かが私のnoteをシェアしてくれたらしい。添えられた感想を嬉々として読むと、サーッと心臓が冷えていった。

「殺意が沸く」

私の書いたものを読んだせいで、ひどく気分を害されたようだった。


そのツイートをした人のことを、便宜上「彼」と表現する。

彼が読んだのは、私が一年と半年程前に書いた『「学生時代に戻りたい」なんて言う大人になるな。』というnoteだった。主にタイトル通りのことを綴っているので、詳細は割愛。私個人としては、過激なことは書いていないと考えている。

一年半前に書いた文章だけど、私の気持ちは変わっていない。「学生時代がいちばん楽しかった」とか「大学生に戻りたい」とかいう大人には、やっぱりなりたくないし、学生時代は充実していたけど、そこを人生のピークにしたいとは思わない。これからも、「今」がいちばん楽しい人生を更新していきたい、……と思っている。

「殺意が沸く」と言われて悲しかったし、腹が立ったりもした。Twitterで彼のツイートを引用RTして言い返してやろうとしたけれど、ふと、ある言葉が脳裏をよぎった。


「こういった意見があることは、受忍しなければなりません」


――SNSのトラブルを相談させてもらった、ある弁護士さんの言葉だった。


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インターネットで文章を書いて発信するにあたり、この5年間ずっと大切にしてきたことがある。それは「きちんと文章で認められること」だ。


文章は、私にとって「譲れないもの」のひとつだった。どうしてそんなに特別になったのだろうと考えると、子どもの頃、何も習い事をしていなかったからかもしれない。友達がピアノや体操や塾に行っている間、私は一人でもくもくと物語を書いていた。

これといって得意なこともなかったせいか、中高生の頃には、書くことが私のアイデンティティーに成りつつあった。ピアノを習っている子が「合唱コンクールの伴奏は絶対に私がやりたい!」と思うのと似た感覚、と言ったら伝わるだろうか。小さな頃からずっと取り組んでいたものだからこそ、書くことでは他の人に負けたくなかった。

他の科目でどんなに褒められても、国語で学年トップを取れなかったら意味がないと思っていたし、大学では最優秀生に選ばれたこともあったけれど、文芸創作ゼミでの評価は振るわなくて、試合に勝っても勝負には負けているような気持ちだった。

校則を守っているとか、人と円滑なコミュニケーションがとれるとか、そんなことで認められるより、ずっと、文章で、表現で、認められたかった。文章で認められることが、私にはいちばん大切だった。


今も、「文章で認められたい」という気持ちは変わらない。

有名な起業家やインフルエンサーといった、影響力のありそうな人に絡んで媚を売ったり、過激な企画や発言をしたりして注目を集めたり、関係性を隠したうえで、親しい人に自分の作品をメディアに売り込んでもらったりするようなことは、私は「やらない」と決めている。それは、「文章で認められる」こととは違うから。

仮にそれらの方法で私の文章が読まれるようになったとしても、「自分の実力で認められた」とは言えないと思う。そのような手法で認められても、私は自分のことを誇れない。万が一、それで認めてもらえるようになったとしても、真に実力がなければ転落するに決まっているのだ。


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さて、昨年の6月。日記ブログに「関係性を隠したうえで、親しい人に自分の作品をメディアに売り込んでもらう方法にモヤモヤする」と書いたら、その手法を取っていたクリエイターにTwitterでブログを晒され、その人のファンや友達から総スカンを食らう、という出来事があった。


「親しい人」――つまり、家族や友達やパートナー、同僚など――に作品を宣伝してもらうこと自体は、悪いことではないと思っている。でも、関係性を隠し、わざわざ他者を装って宣伝するのは、周囲からの見え方が違うのではないだろうか。

インターネットの広大な海の中で、作品を読んでくれる人、好きになってくれる人と出会うのは、そう簡単なことではない。私自身も、自分の文章を読んでくれる人と出会うために、公式LINEをやってみたり、InstagramやTwitterをやってみたり、手を替え品を替え、あらゆる手段をとりながらここまでやってきた。

親しい人に応援してもらうことに価値がないと言っているのではない。作品を通して出会った読者さんに応援してもらうことのほうが、「出会い」や「作品だけで好きになってもらう」ことの難しさからより価値があると考えているのである。

ちなみに、「関係性を隠して宣伝する」ことについて、Twitterでアンケートを取ったことがあるので、その結果をここに貼っておく(ご回答くださった皆様、ありがとうございました)。

(参考までにいただいたご意見をお伝えすると、
隠す派:まずは作品を読んでほしいから隠す/特に聞かれないので結果として隠している
隠さない派:隠す理由がない/手心がないという心の内は証明不可能だからこそ事実は公開するのがフェア/関係を公表せずに行った「善意のPR」はステマと紙一重)


私の「モヤッと」を加速させたのは、あるクリエイターの“親しい人”が、関係性を隠したうえで、サポートやオススメ、ファンページのようなものの作成、メディアへのプッシュをしていたことを知ってしまったからだった。それは通常の記事だけではない。コンテストに参加している記事ですら、そうだった。

無料で読めるインターネットの記事にサポートやオススメをもらうのは、本当に本当に難しい。ましてやファンページのようなものを作ってもらうだなんて。

広大なインターネットの海の中で偶然出会い、作品(そして作り手)を好きになってもらうだけでも難しいのに、「お金を使ってまで/時間を割いてまで応援しよう!」という関係性を築き上げるのは、簡単なことではない。ばんばんサポートをもらっているであろう、有名な起業家やインフルエンサーだって、最初の最初は苦労したはず。みんな、ゼロからのスタートなのである(家族や友達やパートナー、同僚なら、ともに生活していくうえで関係性がすでにできあがっているので、「支援しよう!」という人も少なからずいると思う)。

だからこそ、まるでその苦労が執り行われたかのように、無関係の他者を装ってサポート・オススメをやっていたのが、どうにも腹立だしかった。

もちろん、スキやフォローもそうだけど、サポート・オススメも、クリエイターとの関係を明示する必要はないし、そもそもアイコンが表示されるだけだから明示のしようがない明示するのは不可能だと思う。

しかし、noteは、サポートとオススメをすると「編集部のおすすめ」に入りやすくなったりすることがあるらしい。入ろうが入らなかろうが、誰かからのオススメがついていれば、他の読者も「良い記事」なんだろうと認識する可能性は高いと思う。

ここまで考察してきたことを統合すると、「無関係の他者を装ったうえでサポート・オススメしたほうが優位だから」やったように見えるわけである。

クリエイターの方が頼んで課金してもらったのか、それともその「親しい人」が良かれと思って「自発的に」「関係性を隠して」課金されたのかはわからないし、そんなことは確かめようがない。本当にその記事を良いと思って、作り手を応援したいと思って、課金しているなら全然構わない。でも、わざわざ関係性をひた隠しにして行っていたのが、私にはどうにも理解できないのだ。何か隠さなければいけない理由があったのだろうか?

「関係性を隠して宣伝するほうがメリットがある」と認識してやっていたのだとしたら、まるでステルスマーケティングのようだ。私が広告関係の仕事をしていたから、敏感にそう思ってしまうだけなのだろうか。


日記ブログにはこのやり方を「フェアじゃない」と書いた。

もちろん、この方法が「アウト」なわけではないし、当然関係性を示さなければならないルールもない。単に、私がその方法を「美しくない」と思っているだけなのである。「表現」の世界なんだから、「表現」で勝負するべきだと。これは私の考えだから、違う意見の人もいると思う。

でも、インターネットで活動をしている多くのクリエイターが、作品を見てもらうために、試行錯誤しながら正々堂々とアピールしている。そんな中で、「関係性を隠して」親しい人に作品を宣伝してもらうという手法が、私にはどうしても好ましく思えなかった。


「この文章は誹謗中傷なので通報しました!
運営さん、削除お願いします!!」
「〇〇さんは実力があるから認められているんだ!」
「こんなことを書いて、本人が傷つかないと思うの?」
「この人は人を貶めるために文章を書いている」
知人が応援しちゃいけないなんておかしい!
「○○さんが知人に頼んだ根拠はどこにあるんだ!」
「この人は言葉で生きるのをやめてほしい」


そのクリエイターが私の日記ブログをTwitterで晒したすぐ後、上記のようなツイートがタイムラインに山ほど流れこんできた。発言しているのは、そのクリエイターのファン友達だとすぐにわかった。

それらをスクリーンショットに保存したあとで、法律事務所にメールを打った。

私の書いた文章が誹謗中傷に値するものなのか、書いてはいけないものだったのか確かめようと思った。


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依頼をした法律事務所は、電車で二駅先の街にあった。ホームページによると、弁護士の先生と司法書士の先生が二人で立ち上げた事務所らしい。駅から歩いて5分の場所にあるようだったが、梅雨だというのにとてもよく晴れた日で、日傘を差すかどうか迷った。

約束の時間の5分前に受付を訪ねると、クリーム色のブラウスにミントグリーンのふんわりしたスカートを着こなした女性が応対してくれた。事務所の一角にある応接室に通される。

彼女は「時間になったら先生がいらっしゃるので、少々お待ち下さい」と言いながら、テーブルの上に280mlのサントリー天然水と、個包装のウェットティッシュを置いて去っていった。

初めての法律事務所に、ドキドキしていた。「自分の書いた文章が誹謗中傷に値するか確認したい」なんて理由で法律事務所を訪れる人が、果たしているのだろうか。緊張で喉が渇いて仕方がないので、早速ペットボトルの蓋をあけた。

時間ぴったりに、事務所の奥から弁護士の先生が現れた。慌てて立ち上がる。

「阿紀さん、初めまして。よろしくお願いします」

テーブル越しに名刺をいただく。上下おそろいの紺色のスーツ。ジャケットには、ドラマでよく目にする黄金の弁護士バッジが輝いていた。「弁護士」という職業柄、なんとなくお堅いイメージがあったのだけれど、穏やかな微笑を浮かべた彼女はどことなくモナ・リザに似ていた。

「おかけください。それで、今日はSNSのトラブルということでしたよね」

座りながら、あらかじめ鞄から出しておいた資料を先生に差し出した。弁護士さんに相談するにあたり、これまでの経緯を簡単にテキストにまとめていた。当然、私の日記ブログ(原文ママ)と、いただいたご意見をスクリーンショットでPowerPointに貼り付けたものも、印刷して用意していた。

彼女はその資料を「ありがとうございます」と受けとり、「うん、うん」とうなずきながら読み始めた。私はその様子をドキドキしながら見守っていた。先生は、最後のページまで読み終えて、ぱっと顔をあげると、


「大丈夫です。これは意見であって誹謗中傷ではない。安心してください。阿紀さんは、出来事・やり方に対してただ意見をのべただけです」


そう、にっこりと笑顔を浮かべて言った。心底安心してしまった。私自身も誹謗中傷として書いたつもりは一切なかったけれど、認識が違う可能性もあり得る。解けた緊張が、マスク越しに先生に伝わっているんじゃないかと思った。

先生は言葉を続ける。

「阿紀さんは「このやり方を好ましくない」と言っているだけ。何も悪いことは書いていません。

ちなみに、どういったことが誹謗中傷になるかというと、人格否定的な言葉を伴うとアウトになります。たとえば「こんな方法使うなんて馬鹿じゃない?」「人間としてどうかしてる」などですね。言うまでもありませんが、人格否定をせずに意見を述べることが大切です。

この阿紀さんの日記ブログの場合は、人格否定に該当しません。よって誹謗中傷ではない。何も問題ありません。

このクリエイターさんご自身が、阿紀さんの書かれた日記ブログを他の弁護士に見せてたとしても、「これは誹謗中傷ではない」とおっしゃると思います。「記事を通報した」とおっしゃっている方もいますが、ブログサービス側が削除していないということは、「誹謗中傷ではない」と認識されているのではないでしょうか」

弁護士さんは先程の資料をパラパラとめくり、該当する発言のスクリーンショットをもう一度指で追った。

「阿紀さんの日記ブログをツイートしたクリエイターさんは、「泣いた」「傷ついた」というようなことを言うことで周りの人を味方につけようとしているのではないでしょうか。これは、SNSの世界だけでなく、リアルの世界でもよくある手段ですよね。

しかし、多くの人が勘違いしていますが、「泣いた」「傷ついた」と言えば被害者になれるわけではありません。

そもそも、こういったことは、本来なら一対一でやり合うべきことです。周囲を巻き込んでしまうのが、SNSの怖さだと思います」

重みのある言葉に、ドキッとする。忘れないようにと思って、ささっとメモした。

「スクリーンショットを見ると、阿紀さんの文章をご自身の解釈で深読みしてしまっているファンの方もいらっしゃいますね。書いていないことをまるで書いてあるかのように読んで、ツイートしてしまっている。

たとえば、「○○さんが知人に頼んだ根拠はどこにあるんだ!」というツイート。そもそも阿紀さんは「頼んだ」と断定しているわけではないので根拠はいりません。まず「わからない」って書いていますからね。

このファンの方は、過剰擁護に走ってしまったのでしょう。世の中の炎上もそうですが、こういう人が必要以上に叩いたりして事態を大きくしています」

私も自分用に印刷しておいた資料を見る。緊張が解けたおかげで、ようやく頭が働くようになった。該当したツイートに合わせて、他のツイートも改めて読んでみる。

「……言われてみればそうですよね。ほかにも、私は「知人が応援しちゃいけない」とは一言も書いていないんですが、そう受け取られてびっくりしました。ずっと「関係性を隠した上で」と書いているのに」

話に耳を傾けるだけだった私がようやく口を開くと、弁護士さんは「そうですね」と笑顔でうなずいてくれた。

「阿紀さんは、アンケート機能を使ったり、SNSをうまく使っていらっしゃると思います。この結果を見ると、阿紀さんのフォロワーさんには、このやり方を好ましくないと思っている方が多いようですね」

気になってアンケートを取ってみただけなのに、SNSの使い方がうまいと言われたのが嬉しくて「えへへ」と声が出そうになってしまった。

「でも、このような手法をやられている方は、世の中にたくさんいらっしゃると思います。ステルスマーケティングも、単なるマーケティングの一種でしかありません。阿紀さんもわかっていると思いますが、このやり方自体が悪いわけではない

それに、このクリエイターさんご自身も「関係性を隠していた」と過去にツイートしていますから、まあ実際に隠していたのでしょうね。でも、そのやり方をとった時点で、こういった意見があることは受忍しなければなりません

「じゅにん?」

「“受ける”に“忍ぶ”と書いて、“受忍”です。耐え忍んで我慢することですね。自分に対して不都合な意見を、すべて罰することはできません。どんな物事にも、賛成・反対はあるはずです。

このクリエイターさんも、その手段を取ると決めたならば、反対意見があることも想定して受け入れなければなりませんそれでもその方法をやると決めたのならば、反対意見がある覚悟をもたないと。

反対されるのが怖いのであれば、最初からその手段をとるべきではなかった

――ああそれは、私にも言えるなと思った。インターネットで文章を書き始めてから、耳の痛いことを言われることも、良く思われないこともたくさんあった。でもそれらを、受け入れていかなければならないのだ。自分にとって不都合だからといって、排除することはできない。

もし何かをやると決めたならば、どんな意見があるか想定したうえで挑戦しようと思った。意見を取り下げるくらいなら書かないし、反対されるのが怖いなら、最初からその手段は選ばない。強い意志を持とうと思った。どんなことを言われても、自分でそうすると決めたんだったら、発言も行動も全部自分で責任をとる。インターネットで発信を続けていく覚悟が、またひとつ固まった。


話の切りが良いタイミングで、ちょうど終了の時間になった。時間内に私の聞きたいことは全部聞けたし、何よりもわかりやすく丁寧に説明していただけた。運良くいい弁護士さんに出会えたようだ。

「阿紀さん」

帰り際、先生は私を呼び止めた。

「傷つく人や悲しむ人がいるからといって、意見を述べてはいけないわけではありません。意見を言うのは、誰だって自由です。

阿紀さんのこの記事は、削除する必要は全くありません堂々としていて大丈夫です。

作っていただいた資料はこちらで預かりますので、何かあればいつでもいらしてください。これからも頑張ってくださいね」

弁護士さんと受付の女性――もとい、彼女が司法書士の先生だったようだ――がエレベーターの前まで見送ってくれた。私は深々と頭を下げて、法律事務所を後にした。

生まれ変わったら弁護士になりたいと思った。


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その一件以降、noteをやっている人と交流するのを控えるようになった。

弁護士さんは「誹謗中傷ではない」と言ってくれたけど、一部の人は私を「誹謗中傷した悪者」として認識しているようだった。そういう噂はすぐに広まっていく。私の悪い癖だけれど、理解してもらうのも面倒で、心のシャッターを下ろすことにした。


近頃、noteのユーザー同士でのトラブルを見かけることも増えた。「この人に傷つけられた!」と記事やツイートに書いて大騒ぎし、その人のファンや友達が「かわいそう!傷つけた奴を叩け!」と、まるで自分たちが正義だと言わんばかりにせっせと火をくべる。

その様を目撃するたびに、弁護士さんとの対話を思い出すのだ――「本来なら一対一でやり合うべきことです。周囲を巻き込んでしまうのが、SNSの怖さだと思います」――。

周りの人は、何の権限があってその「傷つけた(とされる)人」を叩いているんだろうか。そしてそれは本当に誹謗中傷に値する発言なんだろうか? 単に自分たちとは違う意見であるだけではないのか? 逆にその「傷つけた(とされる)人」を誹謗中傷していないだろうか? 人は、怒り狂うと事態を把握できなくなる傾向が強い。

自分たちとは違う意見を「言葉の暴力」と言うのは、一体どっちが「言葉の暴力」なんだろう。自分たちにとって都合の良い意見しか聞き入れず、違う意見は排除していく。まるで言論統制みたい。

最近のSNSは、「同じ意見じゃないと悪」という側面が強すぎる。ちょっとでも批判があれば、「傷つけられた」と大騒ぎし、周囲を扇動する。それが、どんなに真っ当な意見だったとしても、「傷ついた」人がいれば、たちまち発言した人は加害者にされてしまう。

あなたたちの理想とする「やさしいインターネット」は、様々な意見を受け入れられる場所ではなくて、「自分の意見が歓迎される場所」なんですよね。違う考えのある人がいて当然なのに、人と同じ意見しか言えないなんて時代に逆行していると思いませんか。違う意見があれば叩いて見せしめ、好意的な意見しか言えないように牽制して「みんなで仲良くしましょう」?? それこそ同調圧力じゃん。学校かよ。虫酸が走る。

こんな社会になったら、誰も自分の思っていることなんて言えなくなってしまう。


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「殺意が沸く」と書いた彼の気持ちを、受け入れようと思った。

世の中には、様々な意見がある。私にとって不都合な意見をすべて「悪」にはできないし、抱いた感情を変えてほしいなんて、どう考えてもわがままだ。私にできることは、「そう思う人もいるんだ」と受け止めることだけなんだと思う。

冷静になって彼のツイートを読み返してみると、彼の言いたいこともわからなくはなかった。「殺意が沸く」以外にも、「たまたま人生を上手くコントロールできただけのくせに、上から目線でむかつく」というようなことが書いてあって、自分でも「本当にそうだよなあ」と思ってしまったからだった。


『「学生時代に戻りたい」なんて言う大人になるな。』を書いた頃、私は「いけいけどんどん!!」だった。

2019年、ライターになって3年目。小さな頃から文章を書くことが好きだった私にとって、ライターは憧れの職業だった。事務職から未経験でライターに転職して、ようやく上司や同僚、クライアントに認められる仕事ができるようになってきた。着実に、キャリアを積み重ねていた。

私生活でも、約8年お付き合いしていた人と入籍。実家を出て、愛する人と憧れの街に暮らし始めた。作品発表の場として使っていたnoteも、たくさんの人に読んでもらえるようになってきた。その年は、初めてコンテストで賞をいただいた年だった。

「大成功!」しているわけではないけれど、自分なりに満足していた。手応えのようなものを感じていたんだと思う。このまま努力を惜しまなければ、きっと「なりたい自分」――ライターとしても、書き手としても名を馳せられるような――になれるはず。未来への希望に胸を膨らませていた。学生のころよりも、自分で自分の人生をつくっている確かな実感があった。

だから、「学生時代に戻りたい」と言う人の気がしれなかった。飲み会やSNSで「学生時代に戻りたい」と愚痴をこぼす人を心底ダサいと感じていたし、「"今"を楽しく生きるためにもっと頑張れよ」くらいに思っていた。あのnoteは、そんな感情から生まれた文章だった。


――でも、たった一年半しか経っていないのに、今の私は「いけいけどんどん!!」ではなくなってしまった。

昨年、ライターの仕事をすっぱり辞めた。仕事自体は楽しかったし、やりがいはあったけれど、ライターは自分以外の「何か」を書く仕事で、私みたいに「自分のこと」を書きたい人には、向いていなかったのだと思う。

創作活動をする時間を得るために、派遣社員という働き方に変えた。週4日しか働いていないぶん自由に使える時間は増えたけど、収入は下がるし、当然ボーナスなどない。明日どうなるかわからないこのご時世で、やはり不安定感は否めない。それに、アラサーになってまで夢を追いかける生き方は、理解されないことのほうが多い。

このnoteだって、読んでくれている人はたくさんいるけれど、ばんばんメディアに出るとか、出版するとかいった「わかりやすい成功」は収めていない。何をもってして「成功」とするのかわからないけれど、文章で成功するには程遠い。


あのnoteを読み返すと、「努力を続ければ明るい未来が待っている!」と信じて疑わなかった純粋無垢な私自身が、画面越しに真っ直ぐこちらを見ているような気がして、しんどい

ライターの仕事を辞め、自分の文章を書く道に進んでも、何者にもなれない。今の私の姿を見て、がっかりしていないだろうか。いや、がっかりしているに決まっている。だって、私がいちばんがっかりしている

あんな文章、今の私には到底書けっこないし、書きたくない。



あのnoteを書いていた頃、人生が良くなるか悪くなるかは自分次第だし、ぶつくさ言ってる奴は努力不足だと思っていた。だけど、そうじゃない。家庭の環境、心身的な事情、金銭的な事由、様々な理由で、人生をコントロールすることの難しい人が、この世の中にはたくさんいる。努力の問題でどうにかなるんだったら、とっくにどうにかなっているのだろう。

一年半前の私は、間違いなく人生をコントロールできるくらいの立ち位置にいたのだ。今はもう、笑っちゃうくらい全然コントロールできていないのだけど。きっとこれから先も、コントロールできることはないだろう。

これくらいの私の人生だって、コントロールするのが大変なんだから、私より難しく厳しい立場の人は、もっと苦労しているのだと思う。私の想像をはるかに超えていくほどに。そんな人があの文章を読んだら、腹が立つだろう。殺意が沸いてもしょうがないだろう。


実際に、あの文章を書いていたまさにその時、公開前に読み返しながら「何も成功していないのに、こんなこと書いちゃって」とか「偉そうな奴」とか、心の冷え切った私がそう嘲笑っていたのも事実だった。

自分でもそう思うのだから、批判もあるだろうなと考えてはいた。それをわかったうえで公開していたつもりだった。このnoteは、公開から一年半が経ってもよく読まれた。頻繁にシェアもしてもらえている。好意的なシェアが多かったけど、添えられた文章を読むたびにビクビクしていたのも本当だった。いつか、誰かが批判してくるんじゃないかと思っていた。

だから、「殺意が沸く」という文字を見た時も、「ついにきた」というような感覚だった。


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「あのね、“賞賛”と“批判”は二つでひとつなの。だから、どちらかひとつだけを取ることなんてできない。批判される覚悟も持って進んできたから、今の私がある」

3年前、ある経営者の方のパーティーに参加したことがあった。その人は、社長として事業をされながら、何冊も本を出版している。根強いファンが多く、彼女の名前をもじった「ファンの呼称」がついているほどだった。彼女も、文章を書くことが好きだと言っていた。私と同じように書くことが好きな人だったから、彼女を慕うようになった。

その経営者の方と直接お話しする機会をいただき、どういう話の流れでそうなったのかは思い出せないのだけれど、「批判されるのが怖い」と相談したことがある。ライターになって半年ほど経った頃だったと思う。今も無名に近いくらい無名だけど、今よりももっと名無しで何もなかった頃だ。

彼女の回答は、女性らしいふんわりとした見た目とは対照的だった。迷いのない力強い言葉は、多くの批判を乗り越えて生まれてきたものだったに違いない。

賞賛があれば批判もあるのは、当然のことだ。大きな賞賛がほしいなら、そのぶん大きな批判もやってくるだろう。それなら、私はどうする? 批判を恐れて、何もかもやめちゃう?

やめないよ。
もっと大きく飛躍していきたいから、
私は賞賛も批判も両方とっていく。



肯定的な意見だけを求めることも、間違いではないと思う。でも、インターネットを使って表現し、広く発信していきたいのなら、違う意見があることも認め、知っておかなければならない。もしそれがイヤならば、鍵をかけて、仲間内で小さく発信していくしかないと思う。

だって、世の中には様々な意見があるから。きっとあなたに好意的ではない意見もある。それはこれから先も変えられない。あなたの意志では、変えられない。

好意的な意見もあれば、否定的な意見もあって然るべきだ。だからこそ、私は、自分と違う意見も真っ直ぐに受け入れていきたいと思う。人と同じ意見しか言えない世界なんて、私は嫌だから。そんな均一的な虚像の世界では、自分らしく生きていけない。だから、そう思う私が、いちばん違う意見を受け入れていかなければいけないんだと思う。

違う意見に触れ、時には怒りで心の海が荒れ狂うこともあるかもしれない。でも、そういう時は深呼吸して落ち着いて、心を穏やかな凪にしていく。冷静になることが、異なる意見を受け入れるための第一歩なのかもしれない。



Special Thanks:Mutsuki Kashiwagi
忙しいなか、いちばん最初に読んでくれてありがとう。「私は阿紀の姿勢を支持するし、敬意を表します」と言ってくれたこと、本当にうれしかったです。この言葉を、胸に刻んで恥じないように生きていきます。

#自分にとって大切なこと

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