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正義中毒に魂を売らない。

「インターネットのなかではいつも誰かが何かに怒っている」と、私が感じるようになったのはこの2年程のことだった。病が蔓延していくのと同じように、人々の怒りもインターネットにじわりじわりと広がっていくようにみえたのだ。

「怒り」の内容は多種多様である。週刊誌で暴露された著名人のスキャンダルに対して。ニュースで取り上げられた悲惨な事件・事故について。はたまた、友人同士のトラブルでどちらの味方になるかといったこと。SNSでは、四六時中誰かが何かについてメッセージを発している。意見を述べること・声をあげることはとても大切だ。でも、その一方で「それは言い過ぎなのでは……?」と感じる言葉があるのも事実だ。

たとえば、著名人のスキャンダル。関係者でも、なんならファンでもない「無関係な人」が、SNSにその人を貶めるようなことを次から次へと書き込んでいく。それが事実かどうかはさておき、「正論」をぶつけ、その人を再起不能にするまで叩きつぶしていく様を、これまで幾度となく見てきた。

所謂「炎上案件」に関して、自分事のように怒れる人をある意味すごいと思う。私は、テレビやネットの向こうで起こっていることを自分事に引き寄せられない。そんなことよりも、仕事や自分の将来のことを考えるので忙しいのだ。でも、実際、怒ってくれた人のおかげで恩恵を得ていることも少なからずあるのだろう。それには感謝しなければならない。

でも私は、どんなにその人が悪かったとしても、テレビやネットの記事だけで判断し、誰かを叩くことは、できるだけしたくないと思っている。よく取材されて公開している映像・記事もたくさんあるのだろうけれど、世間の関心を集めるために都合良く切り取られている可能性もある。自分の目の前で起こったことじゃない。自分が取材したことじゃない。真実かどうかもわからないことを、あーだこーだ大衆に向かって叫ぶ勇気が私にはない。

そもそも、悪とされる人に「私刑」を与える権利なんて、誰も持ち合わせていないはずなのだ。意見を述べるのは自由だけれど、だからといってその人を攻撃していい理由にはならない。それなのに、インターネットのなかでは、「正義」の名の下に今日も誰かが誰かに鉄槌をくだしている。

その人が悪ければ、我々は何をしてもいいのか? 行きすぎた「正義」は「加害」ではないのか? 混沌としたインターネットには、もう二度と平和は訪れないのだろうか。――……そんなことを考えていたときに出会ったのが、脳科学者・中野信子氏による『人は、なぜ他人を許せないのか?』(2020年株式会社アスコム)という本だった。


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職場近くの本屋で手にとったその本には、「着せ替えカバー」ともいえるような大きな帯がついていて、そこには《正義中毒》という強い言葉が、タイトルよりもでかでかと書かれていた。

本書では、《正義に溺れてしまった中毒状態》のことを《正義中毒》と表現している。より具体的に言葉に表すと、《自分や自分の身近な人が直接不利益を受けたわけではなく、当事者と関係があるわけでもないのに、強い怒りや憎しみの感情が湧き、知りもしない相手に非常に攻撃的な言葉を浴びせ、完膚なきまでに叩きのめさずにはいられなくなってしまう》ような状態のことである。

この本を読んで、人が正義中毒に陥ってしまうのは、大きく分けて「脳の仕組み」「日本社会の特殊性」によるものなのではないかと感じた。


「脳の仕組み」について、簡単ではあるが本文中の以下の文章を抜粋する。

 人は、本来は自分の所属している集団以外を受け入れられず、攻撃するようにできています。
 そのために重要な役割を果たしている神経伝達物質のうちの一つが、ドーパミンです。私たちが正義中毒になるとき、脳内ではドーパミンが分泌されています。ドーパミンは、快楽や意欲などを司っていて、脳を興奮させる伝達物質です。端的に言えば、気持ちいい状態を作り出しています。
 自分の属する集団を守るために、他の集団を叩く行為は正義であり、社会性を保つために必要な行為と認知されます。攻撃すればするほど、ドーパミンによる快楽が得られるので、やめられなくなります。自分たちの正義の基準にそぐわない人を、正義を壊す「悪人」として叩く行為に、快感が生まれるようになっているのです。(『人は、なぜ他人を許せないのか?』p120)

この本の主旨は、「人を叩いてしまうのは脳の仕組みだから仕方ないですよね」ということではないのだが、「脳の仕組み」だと考えると、インターネット上で「正義」を振りかざしている人に対して少しは寛容になれそうな気が……まあ、しなくもない。往々にして、理性は本能に抗えないものである。

でも、人を叩いて気持ちよくなるのは、「脳の仕組み」だけ――……なのだろうか? 炎上案件のような話題になっていることにSNSで言及すれば、話題性も相まって多くの人の目に留まりRTされ、たくさんの「スキ」がもらえる。真偽や背景はさておき、叩いている内容が正論であればあるほど、「この人はいい人」だと認識される。インターネットでは、そうやって人気や承認を得るやり方もある。悪を叩いて得られた「賞賛」は、まるで自分が正義の味方にでもなったような錯覚を起こして、さぞかし気持ちの良いことだろう。

「脳の仕組み」だけでなく、「承認欲求」のようなものも、正義中毒を加速させている一因なのではないか――と、私はこの部分を読んで考えた。


本書を読んで特に興味深いと思ったのは、《日本社会の特殊性》が正義中毒に関係しているという点だった。

中野氏は日本人のことを《摩擦を恐れるあまり自分の主張を控え、集団の和を乱すことを極力回避する傾向の強い人たち》と表現しており、その背景の一つに日本の《災害の多さという地理的要因が大いに影響しているのではないか》と述べている。

日本はどんなに防災面を発展させてきても、現在の状態の地球上のこの位置にある限り、自然災害からは逃れられません。
 防災にコストをかけ、意識をいくら高めても、起きてしまうこと(起きてしまったこと)はどうしようもなく、誰かのせいにもできません。そして、災害からの復興は、助け合いながら、みんなで力を合わせてやる以外にありません。こうした状況下では、個人の意思より集団の目的を最優先する人材が重要視されることはごく自然です。逆に集団の協力行動を拒んだり、集団の了解事項を裏切ったりする人は、みんなからの非難と攻撃の対象になります。(中略)それが良い、悪いという議論ではなく、私たちは抗い難い理由によって、集団主義的要素が強くならざるを得ない状況に置かれているのです。(『人は、なぜ他人を許せないのか?』p56 ※強調は引用者)

自然災害などを背景に、日本では《集団で効率よく、みんなで助け合っていくことが、その環境で生き抜くために最も重要》とされ、長いあいだ我々の遺伝子に刷り込まれてきた、というわけである。

しかしながら、中野氏曰く、その《社会性の高さ》には《負の側面》が潜んでいるという。

ただし、その負の側面として、異質なものを冷遇し、集団内に置いておけなくなった人間を排除する現象、あるいは、他の集団に対する攻撃性が出てしまいやすいということは知っておかなくてはなりません(『人は、なぜ他人を許せないのか?』p61)
相互に信頼が高い社会は、社会性の高さの産物であって、結果として治安の良さや清潔さなどにもつながっているでしょう。しかし、相互の仲の良さ(社会性)の罠と言うべき部分も厳然と存在します。集団的排除といった、何か別のネガティブな側面とトレードオフになっている可能性があるわけです。(『人は、なぜ他人を許せないのか?』p93)
日本では集団の抱えている、いろいろな不都合や問題点に気づいて、空気を読まずに指摘してしまう人が、しばしば冷遇されます。そのことを理不尽であると抗議して声をあげたなら、なおさら集団から圧力がかかり、最後は排除されてしまいます。(『人は、なぜ他人を許せないのか?』p47 ※強調は引用者)

生き抜くために必要不可欠であった《集団的主義要素》は、他の集団に対する攻撃性を孕み、集団内でのルールを背く者を排除する――……。やんわりとそのことを理解したとき、自分自身の過去の出来事が芋づる式に蘇ってきた。

小・中学生の頃、グループの違う女の子同士の対立がよく勃発していた。「スクールカースト」の上のグループが下のグループ(私はどちらかと言えばこちら側の人間だった)をからかっているのを見て、先生に相談したことがある。困ったような顔で「そんなことをしていたら、主流についていけないでしょう」と言われたことを、私は今も忘れられない。先生は「スクールカースト」の上の子たちの味方で、彼女からすると私は正しくなかった。私の訴えは何度も退けられ、当然、そんな学校に居場所があるとは思えなかった。

このことが原因で、私は「集団」というものに馴染めなくなった。「集団」でいる女の子たちを見ると、何か悪いことを言われているような気がしていた。高校生の頃は、空気を読んでクラスのみんなに好かれそうな自分を演じていたこともあったけれど、あっという間に疲弊して数ヶ月も続かなかった。それから、自分を曲げて他人と合わせるくらいなら一人でもいいと思うようになった。「学校」という協調性を育てる場所で「一人」を選ぶのは、それなりに勇気のいることでもあった。

社会人になってからのほうが、私は生きやすかった。会社では自分で考えて行動したり、意見を述べたりすることを求められていて、自己主張が激しめな私には合っていたんだと思う。

でも、たった一回だけ、どうしても納得できないことがあって、会社からの指示に背いたことがある。何があったのか具体的には書けないけれど、会社としては「良い」とされていたことが、どう考えても社会的には「正しくない」ことだった。だから私は「やらない」選択をした。

「この会社で長く働きたいと思うなら、そんな考えじゃやっていけないよ」。仕事終わりに会社の偉い人からそう言われた。どう返事をしたのかはもう覚えていない。「そうですね」と言ったのか、「すみません」と言ったのか。それとも気の強い私のことだから「大丈夫です。ここで長くやっていく気はないので」くらいは言ったのかもしれない。その会社には2年くらい在籍して、一応円満に退職した。

ああ私は、子どもの頃から最近まで、「集団」から排除されそうになってばかりだった。


上記のような経験から、今でも「集団」に対して苦手意識がある。でも、社会で生きていく以上、誰とも関わらずには生きていけない。そこで、できるだけ「集団」に所属しなくて済むように工夫するようになった。たとえば、今は派遣社員として働いているのだが、この働き方が私にはしっくりきている。会社の人たちとはみんな仲が良いけれど、飲み会といった煩わしい人付き合いには参加しなくても良い。「集団に属しながらも属していない」という状況が、個人主義的な私には楽だった。

トラブルが起こりがちなオンラインサロンなどにも、よっぽど興味がなければ入らないようにしている。新しく輪を広げるより、今まで信頼を築きあげてきた友達と深く狭い付き合いをするほうが、私には向いている。友達は多ければいいってものではないのだ。


――でも、集団に属していないがために、攻撃の対象になることもしばしばあった。以前、SNSで発した私の言葉が気に入らなかったようで、ほかのグループの反感を買ったことがある。私の発言は問題提起のようなもので、当然誹謗中傷ではなかったのだが、私はそのグループの人たちから一斉に「悪」とされ、集中攻撃をくらった。この出来事はまさに、『人は、なぜ他人を許せないのか?』で書かれていた以下の部分に該当するのではないだろうか。

本質的な正しさより、仲間内の正義を優先する人々
 人は誰しも、自らを律していなければ、身内には甘く、それ以外の他人には厳しい態度をとるようになってしまうことが往々にしてあります。 これは、内集団バイアスの説明ですが、再度詳述すると、自分の所属する集団内の人物については評価が甘く、集団外にいる人物には厳しくなるというバイアスそのものです。
 例えば、政治的に敵対しているAとBの勢力があったとして、Aの有名な政治家が倫理的に悪いとされること(例えば政治資金等に関わる不正)をしていると報道されたらどうなるでしょうか。 Bの人たちにとっては格好のネタとして一斉に攻撃を始めます。集団外の人物の失敗だからです。(中略)
 では同じことをBの政治家がした場合は、Bの人々の反応はどうなるでしょうか。「それが政治家の能力的に何か問題となるのか」「この程度で政治生命を絶たれるのは惜しい」「そんなことよりもっと本質的な議論をしたらどうか」などというコメントを口々に発するのではないでしょうか。(『人は、なぜ他人を許せないのか?』p136)
集団外から迫害を受けることを「『正義』の行動を阻む悪」として、集団内のみなの共通の敵であると号令をかければ、集団の結束はどんどん高まっていきます。(中略)
 脳科学的に見て、こうした「正義のためにある種、身を挺して戦う」ということの効用は大きく、脳内の報酬系を活性化させる行為だと言えます。人間をよく観察し、許せないという感情を正義と結びつけ、集団内の結束の強化に使いながら、同時にそれ自体も快感となるわけです。(『人は、なぜ他人を許せないのか?』p140)
 SNSでは似たもの同士でつながることが多く、自分と同じような思考をするグループから、自分が欲している情報だけを取り入れ、受け取るようになります(後述しますが、広告もそうです)。日々それを繰り返しているといつのまにか、自分は正しい、自分の主張こそが正義だ、これが世の中の真実だと考えるように仕向けられてしまいます。この現象を確証バイアスと言いますが、集団内でも起こることがあります。これはある意味、深層学習をしていくことの恐ろしさでもあります。(『人は、なぜ他人を許せないのか?』p142 ※強調は引用者)


話が飛びすぎてしまうけれど、私は小説やエッセイを書くことに自分の時間を使いたいと考えている。不要な争いを避けたいのは、創作活動に思いっきり集中するためだ。だから、できるだけ集団にも属さないようにしているのに、「同じグループじゃないから気に入らない」という理由で攻撃対象にされるんだったら、もうどうしていいかわからない。私のことはほっといてほしい。正義中毒について知るためにこの本を選んだのに、はからずして私の抱えていた「生きづらさ」の正体に気づいてしまった。


著者の中野氏は、フランスで生活をしていたことがあり、日本との違いを以下のように記している。

彼ら(フランス人)にとって意見の対立は、互いに意見を持つ人間同士として対等だからこそ、立ち上ってくる現象として捉えられているのです。
 違っていることは当然で、違いがどうあれその理由や背景を議論しながら理解を深めていく社会(フランス)と、同質なのが当たり前で、違っているものがあれば排除しようとする力の働く社会(日本)。そのどちらが良いかは、環境・地理・社会条件により変化します。個人的にはフランスにいたときの方が疲れはするけれど、言いたいことは我慢しなくて良いのが楽だったという印象があります。どのような考え方を持っていても、どんなスタイル、どんな容姿でいても、「私はこうである」という考えさえ説明できれば平然としていても誰も文句を言いませんし、許容されないということは、そう多くはありません。(『人は、なぜ他人を許せないのか?』p86 ※()内は引用者による補足)

フランスはフランスで大変なこともあるのだろうけれど、ここだけを切り取ってみると、私個人としては日本よりフランスのほうが生きやすそうに感じた。とはいえ、急に明日フランスに移住することはできない。それに、英語もフランス語もしゃべれない私にとっては、最善の選択ではなさそうだ。

日本が《どのような考え方を持っていても、どんなスタイルでも、どんな容姿でいても》許容される社会になったら、私のような集団に馴染めない人も少しは生きやすくなるのだろうか。


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さて、ここまで書いてきたなかで「私は清らかな人間です」「正義中毒にはなりません」というアピールをしてしまったようにみえるけれど、そんなはずなかろう、ということを最後に明言しておきたい。『人は、なぜ他人を許せないのか?』にも記されている通り、脳の仕組みがそうなっている以上、誰もが正義中毒になる可能性を孕んでいる。それは私とて例外ではない。

本書では、正義中毒を回避する方法も紹介されている。中野氏は、《まずは自分が正義中毒状態になってしまっているのかどうかを、自分自身で把握できるようになることがとても重要》と述べ、以下のように続けている。

まず「相手を許せない!」という感情が湧いてしまう状態そのものを把握する必要があります。どんなときに「許せない!」と思ってしまうのかが自身で認識できるようになれば、自分を客観視して正義中毒を抑制することができるようになるからです。(中略)怒りの感情が湧いたときは、その感情を増幅させてしまう前にひと呼吸置いて、「自分は今、中毒症状が強くなっているな」と判断するようにします。(『人は、なぜ他人を許せないのか?』p163)
人間の脳は、自らの構造を観察し、フィードバックを得て自らを支えていく機能を持っています。つまり、脳自体が自分の働きを一つ上の層から俯瞰することができ、「自分にはこういう傾向があるから、今後はこうしよう」という具合に修正できるのです。これは生存戦略上、大きなアドバンテージで、私たちはこの働きの高い人を「頭がいい」と形容するようです。(『人は、なぜ他人を許せないのか?』p174 ※強調は引用者)


また、中野氏によると、《正義中毒を抑制してくれる機能を持つ脳の前頭葉は加齢とともに萎縮していく傾向にある》らしい。本書では、老けない脳をつくるトレーニングとして《慣れていることをやめて新しい体験をする》《不安定・過酷な環境に身を置く》といった方法のほか、食事や睡眠の面でも具体的なアドバイスを記している。ぜひ、常に怒りがちな自覚のある人は目を通していただきたい。


超余談だが、せっかくなので、私が正義中毒にならないために心がけていることを紹介する。

①ヒートアップしている話題には入らない。

炎上案件は、SNSで多くの人が話題にしており、トレンドに入っている場合もあるので目に入りやすい。私も、フォローしている人が言及していたり、トレンドを見たりしてその件を知ることが多い(言及している人は一切悪くありません)。

TLの流れを読んでなんとなく把握した事態は、世論であって真実ではないし、冒頭にも書いたけれど、真実がよくわからないものをとやかく言う勇気が私にはない。もし軽い気持ちで場違いな発言をしてしまえば、それを突いて攻撃してくる人もいるはず。私はあくまで自分の作品(小説やエッセイ)を読んでもらうためにSNSを使っているので、余計なことには極力首を突っ込まないように心がけている。


②SNSには書き込まず、リアルで話す。

それでも、「どうしても物申したい!」と思うことが世の中にはたくさんある。特に私は自己主張が激しく、言いたいことが山のようにあって、それを言うためにnoteを書いている部分さえある。だけど、ぐっと堪えてSNSには書き込まず、家族や友達に話を聞いてもらうようにしている。

「この件、どう思う? 私はこう思うんだけど……」と話すだけでだいぶスッキリするし、相手の意見も聞けるので、「いろんな考え方があるんだな」と冷静になれる。SNSだと意見の違う人同士は対立しやすいけれど、大切な家族や友達の意見なら、違っても受け入れやすいのかもしれない。


③私は「正義」なのか?

何かを物申したくなった時、そもそも私は「正しい」のか、何かをジャッジし、裁く権利があるのかということを、常々考えるようにしている。これは、中野氏が述べている《自分が正義中毒状態になってしまっているのかどうかを、自分自身で把握できるようになること》=自分を客観視すること、にも通ずる部分がある。

中学生の頃、『DEATH NOTE』や『コードギアス 反逆のルルーシュ』といった、ダークヒーロー物の作品が流行った。夜神月やルルーシュ・ランペルージは、世界を良くするためなら手段を選ばない主人公だった。どんなに悪いことをしていても、彼らには彼らなりの正義があったのだ。

それらの作品に登場するキャラクターの多くがそれぞれの「正義」をもっていて、幼心に「人には人の数だけの「正義」があるんだ」と知った。このことを、子どもの時に知れたのは大きな収穫だった。今、自分の正しいと思うことと、他人の正しいと思うことが違っても受け入れることができるのは、間違いなくこれらの作品が私に教えてくれたからだった。


『人は、なぜ他人を許せないのか?』のあとがきで、中野氏は以下のように書いている。

 万人によく効く正義中毒の治療法、人を許せる方法は、存在しません。あるとしたら、「人類が全員いなくなること」が抜本的な解決法です。
 一般解は、ありません。だから困る、ということではなく、私はそれでいいのではないかと思うのです。
(中略)私が本書を通して伝えたいのは、ああでもなくこうでもない、そうも言えるし、こうも言えるけれど、結局人間が好きで、考えることは楽しい、ということ。言いたいのはただそれだけです。
 それを多くの人が共有できる時が、正義中毒から解放され、他人を許せるようになるタイミングではないかと思います。このとき、バカと思われていたものは多様性の一角に変わるのです。(『人は、なぜ他人を許せないのか?』p217)

私を含め、世の中の人々が皆、正義中毒から解放されるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。これから先も、我々は正義中毒と共存していかなければならない。今の私にできることは、自分が正義中毒に魂を売らない、ということだけだ。正義中毒が脳の仕組みである以上、簡単なことではないけれど、でももし、そう心がける人が一人でも増えたら、正義中毒で覆われた世界は、少しずつ晴れていくのかもしれない。



*《》内の文章はすべて『人は、なぜ他人を許せないのか?』(著・中野信子)の引用です。

#読書の秋2021 #人はなぜ他人を許せないのか

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