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俯瞰は難しい

朝のうちに、感謝の記事を書いたのですが、丸ごと消えてしまいました。
その内容は、
これまで私を傷つけたり、嫌がらせをした人の行為は許せないけれど、私がその場を体験したことは、とても貴重なことだったので、その体験には感謝しているというものです。
寝起きに、私は今まで本当に素敵な体験をさせてもらったんだなと感謝の気持ちが自然と湧いてきて、書いたものだったのですが……
消えてしまったということは、心からそういう気持ちになったではなく、心に引っかかるものがあったのかもしれません。

私は、さまざまに嫌な人に会いはしたものの、その職を経験したり、その集まりに参加したことは、何物にも代え難い経験だったと思っていますし、心の傷が大きくならないうちにその場から身を引いたことも身を守るための英断だったと思っています。
つまり一番旬の美味しいところをもらったのだと思います。
ただどうしても、人から嫌がらせを受けたというその経験が一番私の心の中に残ってしまいやすいのです。

子どもの頃に『家が守ってくれる。家族が守ってくれる』という実感が無いどころか、その家族がみな、自分を消極的に攻撃していたのですから、世の中はみな私を攻撃するものなのだという『体感』がついてしまったんですよね。
だからちょっとした行き違いや、当然起こる人間関係の軋轢が全て、私を狙って打たれた銃弾だと感じてしまうのです。
理屈でようやくわかってきたとはいえ、体感というのは頭を通さない反射ですから身体中が拒絶反応を示すわけです。
心地よいなという体感が同時にあったとしても、辛いなという体感が優先する。
これではどこに行っても『辛くなる』のは当然です。

私に起きた出来事は、人間はみな、同じ感覚で生きていないがために起こった当然の行き違い。
しかし相手もまた、『辛い方に敏感な性質』を持っていた場合、行き違った私の行動が相手には『悪』と映っている場合がある。
そしてお互いに『攻撃された。だから拒絶するか攻撃するかして応酬しよう』と身構えてしまうのかもしれません。

自分の主観と状況を同時に俯瞰することはとても難しいです。
疑心暗鬼になる習性を持っている私の主観は、味方だと思っていた人がちょっと否定的なことを言っただけで、途端に相手に対して憎しみを持ってしまったりします。
しかし状況というのは、そんなにコロコロと変化するものではありません。
最初は味方と思った人なら、その否定的な言葉は私を外から見た現実を伝えようとしている。
そう考えるのが道理です。
しかし「この人は私そのものを否定している」という感覚を持つことで、私が相手にどう見えているのかということを俯瞰するチャンスを逃してしまうのです。
そしてまた、自分だけの世界に閉じこもっていきます。
相手の言動が全て私を狙い撃ちしていると考えてしまうと、外の世界で起きることは全て暗黒です。

自分の感情と状況を同時に俯瞰することが難しいのなら、自分に起きた感情を脇に置いて、その状況を考えてみる。
その時に感謝の気持ちが湧いてきた。それが今朝の気づきだったわけです。

子どもの頃、自然豊かな土地で育ち、美しいもの、心地よいものにたくさん触れてきました。
植物が好きで、植物を観察したり調べたりすることが得意でした。
小学校でも、友達とよく遊んだり、運動神経が鈍い私でもスポーツ少年団に入って試合の見学などをしました。
学生時代の経験、社会人になり立ての頃の経験、様々な職場での体験、そこから生まれた勉強への意識……。
全て『二度と経験したくは無いけど、経験しておいて良かったこと』なのです。

感情無しで俯瞰したとき、なかなかすごい人生だ。どの経験が不足しても今の私は存在しない。ということに気付けます。
ただ……
やはり心の傷が深過ぎる場合、感情の出所をよく探って、感情を切り離さないと、冷静に俯瞰するのはとても難しいのです。

いったん記事が消えたことで、私の書きたいことの全体像が俯瞰できたため、こんな記事を書くことができました。

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