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その場その場で生きる

ある人から、「普通の人なら生きられないような難関を生き抜いてきたのだから、疲弊して当たり前よ。今は休む時」と言われました。
親から受けた仕打ちがどれほど苦痛だったのかということは、誰かと比較出来るものでもなく、自分自身も親のやることに完全に不信感を持つことはできないため、その大変さを自覚することはできません。
けれど、一つ一つ事実だけを思い返してみても、親としてあるまじき態度で一人の人間を苦しめてきたことがわかります。

子どもの私にとっては大変な被害だったのに、当時の私の頭で理解できる範囲を大きく超えていたために、自分がどれほどの苦境を潜り抜けてきたのかと自覚することはできません。
けれどもともと優れた感度を持っていたために、親の間違った価値観を真に受けることなく、何かおかしい、何かやりにくい、ということを察知してきて、本能的にささやかな抵抗をしてきた。
それが大変な労力だったということなのです。

ポリヴェーガル理論でいえば、どうにもならない状況に『フリーズ』してしまった状態に陥っていたのかと思っていたのですが、実は私は『闘争』をしていたんですね。
『フリーズ』して母の為すがままに従っていたのではなく、対抗心を持ちながら、その場を乗り切るためのベストな方法=正面から闘っても負けるのが明白なので無駄な力を使わずに敵の懐に飛び込んで機が熟すのを待つ、を選んでいたのです。
しかし何十年もその状態に耐え、力を温存していること自体が大変な労力なんですよね。
瞬発力で打ち負かすよりも何百倍もの気力、体力を必要とします。
そこでようやく母の支配に気づき、これまで耐え忍んできたものから抜け出せるようになった時、どっと疲れがでてしまったと言えるのかもしれません。

今の状態は、トラウマによって『フリーズ』する癖が付いてしまったから無気力になっているわけではなく、これまで桁違いの気力で生き抜いてきたからこそ、エネルギーが枯渇してしまった状態なんだと思います。

人は強い。
意識下で「ああしよう」「こうしよう」などと頭で計画するまでもなく、あらゆる逆境に対して、ベストな選択をする力が備わっているのです。
ポリヴェーガル理論でいう、神経レベルで瞬時に身を守る反応を取ることができる。
上手く行った場合には意識もしないけど、大きな敵に立ち向かってなかなか上手くいかないときには、その反応自体が、自分を苦しめることになってしまうのです。
しかし選択を間違っていたかといえば、そうではない。
違う反応をしていたら、支配されて自分を見失っていたか、絶望して自ら命を絶っていたかもしれません。
なぜトラウマがこんなにも尾を引くのかと言えば、対峙した敵があまりにも想定外だったからです。

親が子どもをいじめる。
親が自分の快楽のために子を利用する。

そんなことは、自然界ではかつて無かった事態です。あらゆる生き物は『種の保存』が命題なので、子孫を攻撃するような生き物は、自ら絶滅に向かおうとする自然に逆らった存在なのです。
これまで絶滅した生き物は、自然災害に耐えられなかったか、天敵が増えすぎて身を守れなかったという理由がほとんどで、同種族で滅ぼし合う、ましてや血を分けた子孫の生を破壊するような行為をする生き物など他には居ません。居たとしたら早々に絶滅していて、私たちには知るすべもないでしょう。

自然の摂理に逆らった毒親の行為に対して、先天的に備わっている神経反応で防衛しようとすれば、何を使って身を守ったら良いのかわからなくなる。
生き物の防衛反応に、深刻なバグが起きるわけです。生き物が生きる上であまりにも不自然なために、そのバグを解消出来るような方法は見つからないのです。
毒親というのは、自然界の摂理に逆らった異常な存在なのです。
残念ながらそんな異常ながん細胞のような『毒親』があまりにも蔓延してしまいました。
しかし毒親被害に遭っても、本来の生き方を真っ当しようと抗う『強い子ども』も増えて居るように思います。
いや毒親が増えすぎたけれど、子どもの側が自分の直感を大切にしていれば、苦しいけれど毒されずに生き残ることが出来るということなのかもしれません。
生まれた時から驚くような接し方をされてきて、親を信じることができない。
けれど、その場その場で生き延びる方法は、自分の本能の中に組み込まれているのです。

その場その場で、どう生きるべきか?
落ち着いて自分に問えば、きっと答えがみつかるはずです。

自分を信じる
というのは、自分の生命力の強さと生命の神秘を信じることなのかもしれません。

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