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不快感を大切にする

毒親育ちの回復に必要なことは、親から受けた被害を認識するとともに、自分の中の不快感を認めてやることなのかもしれません。
もちろん人によって課題はそれぞれですが、今の私はそれが最も必要なことだということに気づきました。

ここのところ不快感に向き合っています。
不快感に目を向けると、その不快感を感じている自分が情けなくなり、誤魔化そうとしたり、自分が悪いのだから我慢するべきだと思いたくなったりします。
これこそが、長年毒親と向き合ってきて、身につけてしまったライフハックなんですよね。

以前居た職場の上司に言われた言葉が、今でも思い出されます。
「あなた、資格も経験もあるのだから、もっと自信を持ってやってみれば良いのに」

まだ今の方が自信を持って取り組めることが増えたのですが、当時は本当にビクビクオドオドしていて、常に『私は経験不足だから。何も知らないから』という姿勢で仕事に臨んでいたのです。
もちろん仕事の責任は果たしていたけれど、同僚に少し厳しく注意を受けると、私だけの責任ではないことでも全部自分が悪いと思って謝っていたのです。

少しでも私に落ち度があった場合は、相手にも責任があったとしても全部自分で被ろうとし、
私に責任の無いことでも、きっと私の何かが間違っていて悪い結果を招いてしまったのだと思い込もうとしました。
とにかく自分が謝ってしまうことが、これ以上問題を大きくしないで済むし、そもそも私みたいに仕事の出来ない人間は主張するべきではないと思っていたのです。

前回の記事 おびえながら、いきる でも書いたように、私は幼少期から、家庭内でも学校でも『お前が悪い。お前の存在が悪い』と思わされる状況の中で生きてきました。
その時の対処法として、どこに行っても、何をやっても悪者にされてしまうのなら、必要最低限の動きしかしないで、それでも責められるようなことがあれば謝れば良いということを身につけてきたわけです。
この謝り方についても『心から反省していない』と言われてしまうことがあります。
それなら『自分の悪いところを全て思い出して、心から反省しよう』と考えたのだと思います。

思いますという曖昧さは、もうかなり幼少期から身につけてきたので、物心つくころにはそれが習い性になってしまっており、結局どうしてそんな反応をするようになったのか、真相はわからないからです。

行動の強化が何によって引き起こされていたのか、幼い頃からの習い性になってしまうと、その原因などわからない。
幼い自分が、考えられる限りを尽くして苦痛の少ない方法を選んだのでしょう。
だから真相がわかったとしたら、「そんなくだらない考えだったの?」と思うかもしれません。
けれど幼い自分には生きるか死ぬかの一大事。
何とか生き延びる方法を身につけたのです。
結果生き延びることができたのだから、私にとっては『大成功の秘訣』だったわけです。
その『大成功の秘訣』を今日までお守りとして大事にしてきたわけです。

けれどそのお守りは、とっくに期限が切れ、逆に呪詛となって私を縛るようになってしまいました。
その呪詛こそ、
『私という存在をどの人よりも下に置いて、相手の言うことに全部従う。従えなかった時は心から謝る』
という一種の強迫観念なのです。

ただ、この呪詛に対して、やはり私も1人の人格を持った人間なので、とても不快に感じます。
「私だって、一人前に考えるし、一人前にできるはず!私だけが悪いわけではない!」
その主張こそが、本来の私の人格なのです。
しかし、これまで相手が正しいと思おうとしてきたため、どこまで自分が正しいのかということがわかっていません。
すると、自分が悪いのに認めようとしなかったり、自分よりも出来なさそうな人(これもタダのイメージ)に対して、直接ぶつけないものの、自分に向けられた非難は相手のせいなんだと思い込んでしまったりします。
せっかく自分を守るための『不快感』が湧いてきたのに、自己主張が怖いために、誰かに陥れられたと思い込もうとしてしまうのです。
ゼロサム思考になってしまうのは、きっと自分を直視することが出来ないからなのでしょう。

最も違和感を覚えなくてはいけないのは、自分の行動に対して正しいジャッジがされたかどうか。そして例え自分の側に非があったとしても、それに見合うような指導をされたのかどうか、なのです。

多くの場合、人間同士なので、相手の主観と状況が影響しています。
私も失敗しているけど、相手も失敗した。
しかし相手の目にはその失敗が私の全責任であるかのように映ったり、そうでないことがわかっていても相手は自分を擁護するために、わざと私に責任転嫁をしている場合もあります。

ジャッジを、同じく人間である相手に委ねることがそもそもおかしいのですが、頭ではわかっていても、強く言われたり、攻撃的な言葉を使われたりすると、その態度自体に反応して萎縮してしまいます。

ちょうど先日、職場でこのような行き違いがありました。

私が軽い気持ちで依頼したことを、相手側がとても真摯に受け止め、いろいろ方策を練ってくださり、私に伝えようとしました。
それなのに私は、そんな重大な依頼をしたっけ?とまるで深刻に受け止めていなかったのです。
真剣に向き合ったのに、私に軽く扱われて、相手は激怒しました。
軽い気持ちであっても依頼は依頼だ。自分はそれに対して大変な努力をした。だから謝罪するべきだと、周りに人が居る前で迫ってきました。

私自身はそもそも軽い気持ちだったので、納得はいかないものの場を収めるために謝ったのですが、その相手からも周囲からも信用ならない人と思われてしまったことがとても不快でした。

直後は、みんなの前で恥をかかされたことが悔しく、自分の落ち度にまで気が向きませんでした。
その後から、自分の不誠実な態度に気付いて血の気が引く思いがしました。
このままではその相手にも、周りに居た人にも、普通に接することが出来ないと思うと同時に、私は今後この仕事を続けていて良いのだろうか?いや、自分はどんなところでも不誠実で信用出来ない人と思われているのではないかということまで悩み始めました。

私の不快感の原因は、人前で怒鳴られ謝罪を求められたという相手の行為だったのですが、そもそもそれを招いた自分がいけないんだという思考に陥ってしまったのです。

相手の気持ちや主張は正しく、私の行動に非があるとしても、相手が怒鳴ったり必要以上に過大な謝罪を求めるという行為は割に合いません。
そこは相手に非があります。

今までの私は、そこの見極めが出来ていなくて、相手が強く叱ってきたときに、自分の非を必要以上に大きく捉えてしまっていました。
これはおそらく、相手側の、強気な態度や、見下す態度や、恐怖心を与えるような物言いに反応してしまうんだと思います。
そういう態度に出られると、反射的に「ごめんなさい!ごめんなさい!」と謝ってしまう。
そして何よりも、私の不快感に寄り添ってくれる人が居ないという孤独を感じてしまうことが怖いのです。
私が悪いと認めることで、周りの人は呆れながらも、出来の悪い自分に優しくしてくれる。
そういう無意識の甘えもあるのだと思います。

今回の出来事は、
そもそも私の不誠実な態度が悪かった。
そこは今後気をつけて直す必要がある。
しかし同じことを繰り返さないために学ぶことが出来た。
そのこととは別に、相手が感情的になって場をわきまえずに私のことを怒鳴った。
理由が何であれ、大人としてするべき態度ではない。これは相手の落ち度である。
ということを分析すると、両者の責任は50・50なのです。

それを相手に追及したり、説明したりしても意味がありません。
大事なのは自分の反省すべき点を引き受けて、あとは受け流す。
ようやくこういった分析と心の反応に目を向けられるようになりました。
とはいえ、ここまで冷静になるのに4〜5日掛かり、その間○にたくなるような感情が襲ってくることもありました。

小さい頃から植え付けられた感情の癖は、自分の命さえ脅かすほどに強烈です。
自分の不快感は正常な反応。
そう信じて、一つ一つ向き合っていくしかありません。

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