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黒田如水(黒田官兵衛)の辞世 戦国百人一首㉗

黒田如水(1546-1604)は豊臣秀吉の参謀として、軍事戦略・調略・交渉などに活躍し才能を発揮した。
本名は黒田孝高(よしたか)で、通称が黒田官兵衛。如水は剃髪後の号である。

黒田如水

おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて

最後の時を迎え、もう思い残すことは何もない。なるがままにまかせて、目の前の道を進んでいこう

黒田如水の辞世は、彼の法号のごとく迷いのない澄み切った心境と、死への旅立ちでさえ肯定的に捉える姿が詠み込まれている。

如水、つまり「水の如し」である。
この名は彼の号であり、目指す生き方や哲学でもあったに違いない。

ところで、黒田如水はキリシタン大名だった。
それを聞いておかしいと思わないだろうか。如水は仏教に帰依した法号である。
実はこれには順番がある。

黒田官兵衛(のちの如水)は、豊臣秀吉の四国攻めで長宗我部元親との戦いに従軍した1585年頃、高山右近や蒲生氏鄕らに進められてキリスト教徒になった。洗礼名は「シメオン」。
ところが、彼の主である秀吉は1587年に、バテレン追放令を発した。
キリスト教の宣教が禁止されたのだ。

・日本でのキリスト教勢力の拡大で一向一揆のような反乱が起きることへの警戒
・キリスト教徒による神道・仏教への迫害
・日本人が西欧の奴隷売買に利用されること
などが理由だったと考えられる。

官兵衛は秀吉からキリシタンであることを責められたようだ。
さらに、1593年の文禄の役(朝鮮出兵)したときの秀吉の戦略に異議があり、秀吉を説得するために無断で帰国したことをひどく咎められた。
朝鮮に追い返された上に、職場放棄したと見なされ封禄や屋敷まで没収されるという厳しい処分に遭っている。
こうした秀吉との関係の悪化の影響もあって、彼はキリスト教を棄教して、出家することに追い込まれたのだ。

「身は毀誉褒貶(きよほうへん)の  間にありといえども心は水の如く清し」
人から褒められたり貶(けな)されたりと何を言われようとも、心は水のように清く澄んでいる

これが号の由来であるが、
「権力、武功、領地、今までの功績などが水のように消え去った」
と言いながら如水と号したともいう。

本来黒田如水は、戦に勝つ嗅覚が鋭いぎらぎらした武将である。

1582年に織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたあと、それを好機と捉えて備中高松にいた秀吉に大軍を率いてすぐさま京へ戻るよう助言したのは黒田如水だった。
おかげで早く行動できた秀吉は、ただちに明智光秀を討取り、信長の遺志を継ぐのは自分だと名乗りをあげた。

関ヶ原の合戦には参陣せず、如水は嫡男の黒田長政を東軍に派遣した。
実は、皆が関ヶ原の合戦で忙しい間、如水が九州を席巻し中央で天下を取ろうとする野望があったと考えられる。
しかし、皮肉にも関ヶ原の本戦はたった1日で東軍の圧勝で終了。
時間が短すぎて如水の天下取り計画は実行できなかった。

関ヶ原の合戦の4年後に如水はこの世を去った。
如水の辞世も、名前のごとくさっぱりと潔く水のように澄んだ心境を詠んだ歌だ。
彼の野心も死を前にすると、水のように流されてしまったのだろうか。


黒田如水の辞世が書かれた短冊は現存しており、福岡市立博物館に所蔵されている。