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明智光秀の辞世 戦国百人一首㉙

明智氏は美濃の土岐氏の支流であり、さらに遡れば清和源氏につながるということだが、明智光秀(?-1582)自身は出自や青年期の行動がはっきりするほど高い身分ではなかったと考えられる。

明智光秀C案

心しらぬ人は 何とも言はばいへ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ

私の心の内を知らない者は、何とでも言うがいい。
この身など惜しくはない。名誉を失うことも惜しくはない。

光秀は斎藤氏に仕えたあと、苦労を経て織田信長に仕官した。
高給待遇を受けた信長の元では、順調に出世して近江国坂本を与えられ、坂本城を築城するほどの身分となった。
さらに長篠の戦い、石山本願寺攻め、信貴山城の戦いなど数々の重要な戦に従軍し武功を重ねた光秀は、織田軍の重要な一画を占める武将だった。

しかし、1582年に本能寺の変は起った。
明智光秀は主君である織田信長を討った。
彼が信長を倒すことを決心したその理由については「怨恨説」「将来への不安説」「義憤説」などいろいろあり、未だ論争のテーマとなっている。

上記の歌は、その本能寺の変を起こす直前に作られた歌だという。
歌の内容を見れば、その時点で光秀は自分の死さえも覚悟していたことがわかる。

もう一つ光秀の辞世とされる漢詩がある。

   順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元

順序正しい道も逆道も(信長に順するのも逆するのも)全て同じ道であり、心のままに行ったことだ。55年の夢から覚め、私がこれから新しい生涯に帰るだけということだ。

こちらの漢詩も和歌と同様、謀反を起こす直前の死を覚悟した心境を詠っている。実は、最初の辞世の和歌もこの漢詩も後世の創作だという説があるらしい。

ならば、愛宕百韻の連歌はどうか。
明智光秀が本能寺の変の前に京都の愛宕山で開催した連歌会での彼の連歌である。
このイベントは1582年5月に開催されている。

 時は今 雨が下しる 五月哉
(土岐は今、天が下しる 五月かな)

土岐(時)氏の一族である私が天に号令して五月(過去に平家・北条氏が倒された乱が起きた月)に平氏を称する信長を討つ

この歌こそが、既にこの時点で光秀には信長討伐の意志があったことを示すという説がある。しかし、そんな野心を詠み込んだ歌を本当に連歌会で発表するだろうか。それは危険だ。深読みしすぎではないかとも考えられる。

ただ、光秀が同じ年の6月に京都の本能寺に滞在中の信長を襲撃したことだけが事実なのである。

こんな風に皆が光秀の心境に思いを巡らすのも、誰も「どうして明智光秀が織田信長を討ったのか」がわからないからである。
つくづく光秀は罪な男なのだ。