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息をするように本を読む51 〜中島敦「山月記」〜

 「山月記」は国語の教科書に載っている物語の中で、「走れメロス」の次に有名な短編ではないだろうか。
 貴志祐介氏の「青の炎」でも、米澤穂信氏の「氷菓」でも、この短編の話が出てくる。

 日本の高校生に聞けば、大多数が「その声は、我が友、李徴子ではないか」のフレーズを知っているのではないかと思う。

 最初、自分で教科書で読んだときは、漢語が多くてなんて読みにくいのだろうと思った。
 それに時間の都合か、授業であまり掘り下げた話をしなかった(単純に私が真面目に授業を聞いてなかったのかもしれない)ので、印象が薄かった。


 最近、いつも聞いているラジオ番組で朗読の時間があり、この「山月記」が朗読された。
 
 朗読者が巧みだったこともあるのかもしれないが、思わず聞き入ってしまった。
 漢語だらけの文章だ、音読では耳に入ってくるまいと思っていたが、そんなことは全くなかった。
 正直、音だけで聞いても意味の分からない言葉がところどころあったが、リズム、と言っていいのか、調子と言っていいのか、それがとにかく心地よい。
 漢語の響きも、まるで音楽を聴いているようだ。
 
 格調高い文章とは、なるほど、こういうことをいうのか。
 食わず嫌いをしていてもったいなかった、と思い、読み返してみた。

 
 物語はよく知られていると思うのであまり説明はいらないと思うが、一応。


 中国は唐代。
 袁傪という役人が役職で見回りのため、ある山岳地域を訪れる。
 そこで山越えをする際、地元民にこの山は最近恐ろしい人喰い虎が出るからくれぐれも気をつけるようにと警告される。
 恐る恐る、山を登っていく袁傪の前に果たして巨大な虎が現れ、襲われそうになる。
 間一髪のところ、何をどうしたのか、虎は袁傪に飛びかかるのをやめて飛び退き、薮に姿を隠す。
 その薮の中から「危なかった」とつぶやく声がする。その声に袁傪は聞き覚えがあった。
 ここで袁傪は虎に向かって、かの有名な問い「その声は、我が友、李徴子ではないか」を投げかけるのだ。

 その虎は、袁傪の行方不明の友人、李徴の化身した姿だった。
 

 李徴は、若くして優秀な成績で試験に合格して役人になった。
 学問の造詣深く、詩歌の才があった李徴は、自分よりも愚鈍な俗人たちの中で地方の小役人を勤めることに飽き足らず、詩人として身を立てるべく、役人を辞めた。
 
 しかしながら、そううまくいくはずもなく、夢破れた李徴は役所に再び戻ってくるのだが、同僚はすでに出世しており、李徴はかつて馬鹿にしていた彼らの下で働かなくてはならない。鬱々と楽しまない日々を送っていた李徴はある日、姿を消す。

 その李徴が、なぜ、こんなところで虎になっているのか。

 李徴は語った。
 人は誰もが自分の中に猛獣を飼っている。
 「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」。
 人は皆、それを猛獣使いのように鎮めなだめつつ、飼い慣らして生きている。
 自分にはそれが出来なかったのだ。
 だから、虎になったのだ、と。
 


 尊大と臆病。自尊心と羞恥心。
 こうして並べると正反対の言葉に思える。しかし、並べ方を変えると、よく似た意味になる。
 尊大な羞恥心と臆病な自尊心。
 
 自分の能力を試してみたい。が、自信がない。なぜなら、自分では自身の能力がどれほどのものかわからないから。
 わからないなら、一度でも試してみて、ダメなら更に努力するか、それでもダメなら諦めたらいい。という正論はわかっている。
 わかっているが、試すのは怖い。自分の能力が自分が思っているほどではないと、思い知らされることが怖い。そんな屈辱には耐えられない。
 
 自分が優れているのならそれは知りたいが、大したことないのならそれは知りたくない。
 だから、自分の能力を試すより、試さずにいて、自分より能力がないと思われる他者が自分より上に上がっていくのを腹立たしく思いながら眺めている。あれこれと文句と愚痴を言いながら。
 そうすれば、少なくとも、自分が今ここで彼らの後塵に甘んじているのは自分の能力が不足しているためでなく、自分がまだ試していないからだ、と思えるからだ。
 つまり「今のオレはまだ本気出してない。本気出したオレはこんなもんじゃない。明日から本気出す」ということ。
 
 うわ、これは。
 厳しい。胸にグサグサと刺さる。
 これを高校生に教科書で読ませるのか。
 授業する先生も大変ではないか。
 

 夕食後、我が家で1番最近まで高校生だった次女にこの話をしてみる。
 次女は苦笑いしながら、そうだね、と言った。
 私も、共感できたよ。ていうか、ほとんどの中高校生はそうでしょ。ま、明確にそう自覚できるかどうかは、人によるけど。
 
 成長して大人になるということは、この猛獣を飼い慣らす術を身につけることなのだろう。
 それは、馴れ合いになるということではなくて、そういう自分を冷静に認識して受け入れることができるようになるということなのか。

 できないまま、大人になった人もたくさんいると思うし。

 わ、これはまた手厳しいことを言う。


 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
 
 高校生というのは、私たち大人が思っているより大人なのかもしれない。
 そして私たちは、自分たちもかつて高校生だったことを、たまには思い出してみるのもいいのかもしれない。
 

 ****
 「山月記」は青空文庫で読めます。そんなに長くないので、興味がおありの方はぜひ。
 漢語が多くて(多過ぎて)読みにくいかもしれません。同じく青空文庫の朗読もあります。
 よかったらそちらも聴いてみてください。

 
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