映画『きみとまた』ネタバレ感想/愛しているのに…どうしようもない男女を描く
『愛うつつ』、『きみは愛せ』の葉名恒星監督の3作目であり、商業デビュー作。3作を通して、“愛しているのに、抱けない男性”を描いている。そして、それは監督の実体験に基づいている。『きみとまた』についてみていく前に、前2作についてみていきたい。(役者名は敬称略)
1作目の『愛うつつ』は、付き合って7ヶ月になるが、純は恋人の結衣を抱けずにいた。結衣は、純が抱いてくれないのは、自分に魅力がないからなのか、それとも純は性の経験がないのか…と思い悩むが、直接聞けずにいる。
更に純は、結衣に言えない秘密があった。それは、仕事の先の先輩にすすめられ、出張ホストをしていることであった。出張ホストの客相手には、性的欲求を感じ性行為をすることができるのに、恋人である結衣にはできない。純自身も自分が矛盾していることは分かっていても、どうしようもできずにいた。
そして、とうとう結衣は純の秘密を知ってしまう。当然、結衣は純が理解できない。純も純で説明しても理解してもらえないことは分かっていながら、理解してもらおうと必死になる。抱けないけれど、愛している、受け入れてほしい。切実さと歪さを細川岳、nagohoの2人が見事に体現し、何とも言えない息苦しさが印象に残る。
2作目の『きみは愛せ』では、閉鎖的な田舎で諦めながらももがく3人の姿を描く。『愛うつつ』に続き、細川岳が出演し、別れた恋人を忘れられず遊びの関係しか持てない朋希を演じる。リサイクルショップで働く無口な慎一は、朋希の妹の凛が好きだが、凛が別の人を好きなことを知っている。自分と結ばれなくても、凛が好きな人と幸せであればいいと思う。
そんな凛は、朋希と共に何かと面倒をみてくれている弘志に思いを寄せ、不倫関係にある。都合の良い相手でしかないのも分かっているが、別れられずにいる。そんな凛は、妊娠をきっかけに弘志と離れる決意をし、3人を巡る人間関係は崩れていく。
1作目の『愛うつつ』に比べると、“愛しているのに、抱けない男性”というテーマが主軸というよりは、閉塞感の中で歪でも愛を求めもがく姿が描かれているように思われる。慎一は、凛が酔って迫っても性的な関係を持とうとしない。どこまでも優しい慎一の愛は、一途だけれど片思いのままでいいという独りよがりと臆病さも垣間見える。1作目に続き、“普通の愛って?”という問いかけが描かれているといえる。
そして、3作目となるのが『きみとまた』である。愛しているのに抱けず、アキと別れてしまったまるおは、自分の体験を元に映画を撮ることに。本作はまさしく、自身の体験を元に1作目『愛うつつ』を制作した監督自身を描くというメタ的構造になっているのだろう。
まるおは、脚本を書いている途中で行き詰まる。なぜ抱くことができなかったのか、答えがわからず、結末をどう迎えるか決めかねていたのだ。そんなまるおは、答えを得るためにアキに会うことを決意する。
脚本のためと様々な質問をするまるおにアキは、協力する代わりに「まるおの精子をください」と言う。アキは、まるおと別れた後結婚したが、夫とはセックスレスである。義母らから子供の話をされ、焦りを感じていた。
しかし、アキは本当に精子が欲しかったのではなく、まるおに抱いて欲しかったのかもしれない。自分に対する自信を失っていたのかもしれない。そして本当にくれるとも思っていなかったのではないだろうか。至極真面目に考え、生まれた子供がいずれ本当の父親が誰だか知りたくなる時が来るかもしれない。その時は会うよとまで言い出す。
別れた恋人との歪な関係、何をしているのか分からない状況。自分でも異常だと思っていても抜け出せないのだ。今している行動を止めるのは簡単だが、その後も同じところで行き詰まるかもしれない。馬鹿馬鹿しいと分かっていながらも突き進むのは、何か答えが欲しいからであろう。惨めでも、足掻くことで何か得られると信じていたい。
正直な話、私はこの監督が描き、問いかける悩みに共感はしない。むしろ分からない。それでも何だか引きつけられるのは、皆が当たり前のように語る愛や恋に関して私自身が疑問を感じているからであろう。“普通の恋”、“普通の関係性”って?と悩まないことは幸せかもしれない。しかし、世の中に蔓延る“普通地獄”に対して、疑問を感じていたいし、そのもやもやと向き合おうとする映画に興味を抱く。恋愛至上主義に染まれない者の抵抗と意地でもあるかも、と言うと大袈裟か。