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プロスポーツ選手になってカナダに渡って人生について考えた話

こんにちは!久しぶりのnoteをカナダのモントリオールで書いています。

当初はカナダに来た経緯や海外生活での学びについて書こうと思ったのですが、この際自分を見つめ直す機会にしたく、また改めて自己紹介をしたくなったので26年間の振りかえりと「将来やりたいこと」を纏めたnoteを書かせて頂きました。

ちょっとカッコつけたタイトルになっていますが、僕のことを知っている方にも初めましての方にも、このnoteをキッカケにより僕を知って興味を持って頂ければとても嬉しいです。

このページを見て下さったのも何かのご縁だと思うので、少し長いですが是非最後まで読んでください!

◼️元日に誕生


1995年1月1日に東京都で生まれた。年が明けて生まれたので「明生(あきお)」と名付けられた。
「明るく生きる」「周囲に明るさを生んでほしい」と言う思いが由来。当時は体が小さかったらしいが、大好きな牛乳を飲みまくったおかげで、現在の182cm約100kgまで成長することができたのだと思う(笑)

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この当時はサラサラヘアーだったが、今はバリバリの直毛になってしまった

大好きだったウルトラマンに影響され、祖父の顔面に飛び蹴りを食らわせ耳の鼓膜を破ったというエピソードがあるらしい... 元気でわんぱくな男の子だった様だ。

◼️サッカーに熱中した小学生時代


小さな頃から運動が大好きで気が付けばサッカーを始めていた。毎日学校から帰ると友達とボールを蹴って楽しんだ。壁当てをしてキックの練習をしたり雑誌を読んで海外選手の足技を真似したり一人で黙々とボールを蹴るのも楽しかった。

自分で考えたり研究する習慣はこの頃に培われたのかなと思う。

サッカー以外でも、とにかく体を動かして遊んでいたのを覚えている。

◼️負けたくなかった中学時代


中学校でもサッカーを続けるため、部活がある隣町の公立中学校に進学。決して強いチームではなかったが、何とかして勝ちたかった。相手に舐められるのが嫌で、負けたくないという思いが強かった。自分が実力を上げて活躍してチームを勝たせたくて真剣に練習した。我が強く「自分が」という気持ちが態度や表情に出まくっていたので同級生からすれば扱いづらい存在だったと思う。

体育の授業で持久走のテストがあった時は、何としても学年で1番になりたくて本番当日まで毎晩家の近所を走って特訓をした。最初の頃は野球部が圧倒的に速かったが、秘密の特訓の成果でテストでは1位だった。これが人生における2番目の成功体験だ。(ちなみに最初の成功体験は、小学生の時にビリーズブートキャンプをやり込んでダイエットに成功したこと)

◼️アメリカンフットボールに出会った高校時代


自由な校風と自然溢れる校舎が魅力的で、中央大学附属高校に進学した。大学受験をしなくて良いのも決め手だった。高校でもサッカーを続けるつもりだったが、部活の雰囲気が合わず結局入部はしなかった。幼稚園から始めたサッカーを辞めた。

それでもやっぱり運動部に入りたくて色んな体験入部に参加した。陸上部、ゴルフ部、水球部... どれもしっくり来なくて帰宅部になることも本気で考えた。そんな時、担任の松永先生から「アメフトやろう!面白いぞ。」と熱烈なラブコールを受けた。先生はアメフト部の顧問だった。「筋トレを頑張ればAKBの握手会でモテるかも知れない」という不純な動機もあり、7月末に入部した(笑)

いつの間にかポジションがLB(ラインバッカー)に決まった。何もかも分からぬまま練習に入り、数日後にはいきなり夏合宿に参加した。最初は防具を着て当たるのが怖かったが、ディフェンスで相手を止める快感を知ってから次第に楽しくなり、夢中になっていった。サッカー経験を生かしてキッカーも務めた。ボールはエンドゾーンまで飛んだ。

高校3年時は母校7年ぶりの関東大会出場を果すことが出来た。決勝では当時無敵の早稲田に敗れたものの関東準優勝の戦績で高校アメフトを引退した。

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写真右側の97番が僕です


部員が少なく大半のメンバーが攻守両面でプレーするチームだったが、「関東大会出場」を目標に全員で力を合わせた結果、自分達でも驚く結果を残した。チームで成果を出す喜びを知った経験だった。また自分の活躍が雑誌に載ったりALL JAPANに選ばれたりと社会的に認められる喜びを知った経験だった。

◼️勝負を選んだ大学時代


高校時代の活躍もあり兵庫県の関西学院大学からアメフトでのスポーツ推薦入学の誘いを頂いた。中央大学へ進学する道もあった中、最終的には関西学院大学を選んだ。高校の仲間や親元を離れることで人間として成長したいという思いがあったし、何より日本一の関西学院大学ファイターズで勝負して自分の力を試したい思いが強かった。自らの意思で大きな環境の変化を選んだ最初の経験だった。

1年時、運も重なりすぐに試合に出れた。秋季リーグ戦にもスタメンで出場した。
シーズン途中に怪我で離脱する挫折を味わいながらも甲子園ボウルで復帰し大舞台でプレーすることが出来た。1年目から目標の学生日本一を経験できた。

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2年時、更なる活躍を目指してとにかく自分のことに集中して過ごした1年間だった。U-19日本代表チームの主将を経験するなど沢山の刺激があり、成長を感じられた。そして2年連続学生日本一になることが出来た。チームの勝利に貢献している実感を得られたのはこの頃からだった。 

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写真最前列の7番が僕です


3年時、もし一度だけ過去に戻ることが出来るならこの年を選ぶ。未熟だった自分を変え、4年生を勝たせる為にもう一度やり直したい。「上級生として〇〇せなあかん」「〇〇なプレーをするべき」という義務感が先行し理想のプレーが出来なかった。怪我も重なり焦りや葛藤、迷いが邪魔をしてチームの為に何も行動出来なかった。

今振り返ると、正解を求めすぎていたのかもしれない。最終節、立命館大学に敗れた。自分の無力さを知り情けなくて泣いた。

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迎えた最終学年。覚悟を決めチームの主将になった。もう悔しい思いをしたくないし、誰にもさせたくない。「自分が変わればチームが変わる。」と信じて全てを背負い戦うことを決めた。

元々前に出るタイプでなく人前で話すのは苦手だった。更に新チームがスタートした直後の2月に古傷の手術をし、復帰する6月までほとんど動けなかった。春シーズンは思い描いていたチームとは程遠かった。

背水の陣で臨んだ夏の練習。夏合宿はチームが変われる最後のチャンスだった。上手くいかないことばかりで精神的にも肉体的にも本当にキツかった。

そして学生最後のシーズンが開幕。勝利はするもののミスが続いた序盤戦。日本一になることを公言するチームの試合内容では無かった。

ビッグゲームが目前となったとき、ようやく本当の意味で腹を括れた。色んな先輩からアドバイスをもらい幹部、4年生と話し合い、自分らしく思うままにやり切ると決めた。全て自分の言葉で伝え、自分らしく行動した。少しずつチームが変わっていくのを感じた。

その後立命館大学に勝利し、1年前のリベンジを果たした。甲子園ボウルでも早稲田大学に勝利し学生日本一になった。しかも学生年間最優秀選手になれた。

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けれどライスボウルでは富士通フロンティアーズに負けた。

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主将として過ごしたラストシーズンは目標だった「社会人を倒して日本一」を果たせず東京ドームで終わりを迎えた。

◼️やり切れない気持ちだった社会人1〜2年目


2017年4月、富士通株式会社に入社。一般採用で面接を受け営業職となった。就職活動のときから、社会人でアメフトを続けるつもりはなかった。

「アメフトは学生時代にやり切る」
「社会人になったら仕事一本で勝負したい」

入社直前まではそう思っていたが当時のGMと話し合いを重ねやはりアメフトを続けることに決めた。そして富士通フロンティアーズに入部した。

しかし、大学4年時に無理をしたことで再び古傷が悪化しており、手術をすることになった。1年目は治療に専念し選手登録を見送った。1年間もプレーが出来ない経験は初めてだったし、やりきれない気持ちがあった。仕事や研修は楽しかったが、アメフトに対してはどこか熱くなれない自分がいた。主将として日本一を目指した大学4年時との気持ちのギャップが苦しかった。

社会人でアメフトをする意味や楽しさが感じられぬまま1年目のシーズンが終わった。

2年目のシーズンも怪我の調子はあまり良くなかった。痛みを抱え思い通りのプレーが出来ないことがストレスだった。だが1年目を治療に費やしたことに負い目を感じ、痛みのことは誰にも相談できなかった。

大学時代の同期が思い思いに「社会人」を楽しんで、チームの同期が試合に出て活躍していて、周りが羨ましかった。目標を失い、自分が嫌いになった時期だった。

「このままアメフトを続けても中途半端になる」「仕事に専念するべき」そう思いシーズン終了後、引退届を提出した。

◼️「後悔ない毎日」を誓った社会人3年目


社会人2年目のオフシーズン。お世話になった方々にアメフト引退の意思を伝えるため関西に渡った。悩み抜いた末の答えであったはずが、話を打ち明けるにつれて次第に気持ちが変化した。

「今までお世話になった方々や家族に対して試合に出てプレーで恩返しをしたい。」「自分を支え続けてくれた人に最後にもう一度喜んでもらいたい。」

心の底に押し込めていた本当の想いに気付くことが出来た。

1年間もう一度アメフトに向き合って、
それでも結果が出なければ潔く引退しよう。

そう決意して社会人3年目のシーズンが始まった。仕事に全力で取り組みながらも
学生時代以上にトレーニングに励み、食事に気を遣い、毎練習後に自主練習をした。リハビリもしっかりやった。

怪我人が多かったこともあり、少しずつ試合の出場チャンスを得た。気がつけばスタメンとしてプレーしていた。そして、3年目のシーズンも日本一になることが出来た。

覚悟を決めてアメフトに向き合い、試合でプレーをして、優勝に貢献できたこと。信じて支え続けてくれた人達に恩返しが出来たことが何よりも嬉しかった。

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「あの時アメフトを辞めなくて良かった」

心からそう思えた。

◼️新たな目標が生まれた社会人4年目


社会人3年目のシーズン終了後、2020年2月に日本代表の選考会が行われた。アメフトを引退していたら巡り会えなかった機会。昔からフル代表への憧れの気持ちがあったし、迷わず選考を受けた。

そしてこの日、同じ会場でカナディアンフットボールリーグ(以下CFL)のジャパンコンバインも兼ねて開催されていた。

簡単に言えば海外でプロ選手になれるチャンスがあったのだ。

エントリーした後輩から情報は聞いていたが、最初はあまり興味がなかった。サラリーマンとして仕事をしていたし、海外でプレーする姿が想像できなかった。日本代表に選ばれるだけで十分だと思っていた。

迎えた選考会当日。全てのスケジュールが終了した時、「CFLスカウトがお前に興味があるみたいーー」と協会の関係者から話があった。どうやら代表選考会に来ていた自分のプレーがCFLスカウトの目に留まった様だった。

スカウトから名刺を渡され、海外挑戦の意思を問われた。
ーー迷わず「YES」と答えた。
その瞬間「プロ選手」になることが新しい目標になった。

その後、目標だった日本代表にも選出されテキサス州でアメリカの選抜チームと試合をした。結果は惨敗。悔しかったが上のレベルを知ったことで更に高みを目指すモチベーションを手に入れた。

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写真一番左の47番です


そして帰国後、トロントで開催されるCFLコンバインに向けトレーニングを再開した。プロトレーナーから指導を受け、測定に特化したトレーニングを重ねた。

しかし、新型コロナウイルスの影響で2020年3月末のコンバインが中止。その後も朗報を待ち準備し続けたが、 結局CFLは2020年シーズンの中止とCFLコンバインの実施見送りを決定。 巡ってきたチャンスが遠くへ行った感覚だった。しかし翌年のコンバインへ自動的に招待されるとのことで、何とかチャンスが残った。2021年に向け1年間かけて準備することに決めた。

◼️夢の扉をこじ開けた社会人5年目


社会人4年目のシーズンはチームの副将を務め日本一を目指したが、決勝で敗れ目標は果たせなかった。決勝での敗戦から1週間、無気力な日々を過ごしていたが、1年間の延期を経て開催されるCFLコンバインは3ヶ月後に迫っていた。

気持ちを切り替え、残り3ヶ月間のスケジュールを立て、コンバインに向け本格的に動き出した。新型コロナウイルスの影響により、コンバインとインタビューをリモートで開催する方式に変更された為、当初会場であったトロントへ行く必要は無くなった。

平日は朝5時半に起床。電車で1時間かけてチームのクラブハウスに行き早朝トレーニング。その後、日中は業務。終業後に2回目のトレーニング。帰宅する頃には23時を回る日々だった。帰宅後は英語の勉強。やり終えるまでは寝ないと決め毎日やった。休日も全てコンバインの準備に費やした。シーズンオフなど関係なかった。

そして迎えた3月末。コンバイン映像を全て撮影しCFLへ提出した。自分で設定した目標数値は全てクリア出来た。ドラフト前のインタビューでは画面越しではあったものの、英語で気持ちを伝えることが出来た。

やれることは全てやり切った。

そして迎えたドラフト当日ーー

日本時間の2021年4月16日朝2時過ぎ。CFL Global DraftでMontreal Alouettesから全体2巡目13位でドラフト指名を受けた。

海外挑戦を決めてから1年間、費やしてきた時間や想いが報われた。小さい頃に憧れた“プロスポーツ選手”としての第一歩を踏み出した瞬間だった。

7月初旬、日本を離れモントリオールに渡った。3週間のキャンプを経て練習生として登録された。結果を出せなければ即クビになる世界。キャンプ初日から今日に至るまで、カットされた選手を何人も見てきた。毎日が職を懸けた勝負だった。とにかくゲームロースターへの昇格、試合出場を目指し毎日やれることをやり続けた。

そして2021年10月22日ーー

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プロ選手として初めて試合出場を果たした。パフォーマンス内容には決して満足していないが、カナダに来てからの葛藤や試合に対する不安、恐怖など、色んな想いを乗り越えて思い切りプレー出来たことは良かった。

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ホームスタジアムでCFLデビュー。寒すぎて試合中10回位はトイレに行った。。


モントリオールに来て約5ヶ月。
この環境でスポーツが出来ることは決して当たり前ではなく、本当に恵まれていた。競技面のみならず、異国の地での生活や新たな出会いが多様な価値観に気づかせてくれること。日本では経験出来ないことだった。毎日が発見の連続で、勉強の日々。お金では買えない人生の財産を手に入れた。

◼️これからの将来


こうして振り返ってみると、スポーツばっかりの人生だと改めて思う(笑)けれどスポーツを通して大切なことを学んできたのも事実だと思う。
(他に好きなのは銭湯、散歩、ペットショップに行くことぐらいです...)

最後に、今までの経験を通して感じている「将来やりたいこと」を整理してみた。自分にとって今後の指針になればいいなと思う。

⑴プロ選手として結果を出す
今年は目立った活躍は出来ていないし結果も残せていない。だからもっと力をつけてより上を目指したい。渡加前は何も分からない状態だったが、プロの世界で1シーズン揉まれた今「試合に出続けて活躍する」を次の目標として据えたい。そしてこの競技を極めたい。

⑵アメフト界、スポーツ界の普及発展に貢献する
自分の経験を生かし、職業なのかボランティアとしてなのかは分からないが、何かしらの形で携われたら嬉しい。スポーツに育ててもらった恩を自分にしか出来ないやり方で返していけたらこれ以上の幸せはない。

⑶個性を大事に、幸せに生きられる世の中を創る
相手を尊敬し、個性を尊重し、皆それぞれがその人の幸せを追求できるような世の中創りをしたい。方法も可能性も無限大だと思うので、今後もっと勉強をして何かカタチにしたい。環境問題や社会問題についても勉強をしたい。

⑷やりたいことを、悔いなくやる
心が感じる「やりたいこと」に挑戦し続けたい。例え具体的でなくともまず行動に移す!これまでの人生がそうだった様に、3年後、5年後に何が起こるかなんて分からない。想像もしなかったことが実現できることだってある。だから自分を信じて、目の前の「やりたいこと」に挑戦し社会に貢献したい。

(おまけ)
カナダで出会ったオーストラリアン・ラブラドゥードゥルを飼いたい

◼️おわりに

長文となりましたが、最後まで読んで頂き有難う御座いました!アメフトのことでもそれ以外でも、ワクワクすることをしていきたいなと感じています。今後も色々な方に出会い様々な価値観に触れ、良い影響を与え合えたら最高だなと思っています。またこのnoteを読んで、僕に対して何かアドバイスや感想があれば是非頂けると嬉しいです。帰国後はお茶でもしながら熱い話が出来れば最高ですね。。

以上!

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