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流行のビジネス書『最強の子供学』【ショートショート】【#114】

「いえいえ違うんですよ。ほんと僕なんて何をやらせてもダメダメで、先輩の助力なしには何にもできないヤツなんですから。言ってしまえば赤ん坊みたいなもんです。これからもどうか手取り足取りよろしくお願いします……」

 通りがかかったフロアからは、やたらと弱々しくへりくだったセリフが聞こえる。見て見ぬふり……いや、聞いて聞かぬふりをしながら、僕は人事部のある場所、その一番奥に座っているハカマダ部長のデスクに向かった。

「おぉ、待ってだぞ」

「すみません、打ち合わせが伸びてしまいまして……今日はなんですか?」

「――お前、この本知ってるか?」

 僕が来たのを見るやいなやハカマダは一冊の本をこちらに放り投げてきた。片手はカバンを持っていたこともあり、驚いて本をとり落としそうになる。気を取りなおし本を眺めてみると、タイトルは『最強の子供学』という育児の本だった。

「あれ? ハカマダ部長って子供いましたっけ?」

「子供はいない……というか結婚もしていない。それに――俺は子供は嫌いだ」

「じゃあなんでこんな本を……?」

 ハカマダ部長は放り投げた本を苦々しくにらみつけながら言った。

「……あのな、最近この『育児書』が流行ってるんだ。それも――ビジネスの世界でな。……ほら、お前も聞いただろう?」

「……え、何をですか?」

「ほら、さっきもそこにいただろう。やたらとへりくだって……なよなよして……自分は人畜無害で無力な存在です~助けてくださ~い、なんてアピールしてる男が。ついそこに……」

「あーっさっきの! いましたいました!」

「あいつは絶対この本を読んでるぞ。書いてあることそのまま実践してるからな」

「え……いやでも、これ育児書なんですよね?」

「そう確かにこの本は純然たる育児書だ。でもそこに書かれていることが問題なんだ。『赤ん坊というのは自力では何もできない弱い存在だが、どこまでも大人を振り回す。言ってしまえば大人は赤ん坊の奴隷のようなものであり、この生き方には見習うべきところがある』という内容で、まあ育児書は育児書なんだが、これを人生の指南書として読むべきだと、どこぞのなんとかってユーチューバーが言ったとかでな……。そのあたりから火がつき始めて、ついにビジネスにも使える! この本を読め! という風潮に最近はなっているらしいんだ」

「はぁ、そうなんですか……」

 ハカマダ部長はため息をつきながら続ける。

「まぁわかる部分もある。ガツガツ上を見て、上司と何度も衝突したりうまく立ち回ったり……、そうやってもまれて成長していく、なんて時代は終わったのだろう。上に行ったところで、増えるのは税金と責任ばかりでいいことはない。むしろへりくだるだけへりくだって、自らの弱さをさらけ出すことで味方を増やしていった方がいい時代なのかもしれん。島耕作もびっくりだな」

「確かに最近はそういう風潮ありますよね。ガツガツ上を目指すより、居心地のいい空間を作ってのんびりやろうって感じですよね」

「そうだ。――だがな……」

 ハカマダ部長はそこで一度言葉を切り、何気なくスーツの上から内ポケットを探る。しかし探った先にたばこが入っていないことに気がつき、少しイライラしたようだった。部長はつい先日禁煙をしたばかりで、いまだに喫煙の習慣が抜けないようだ。

「いかに世間でもてはやされているからと言っても、うちの会社では認めない。というかこれは俺の美学に反する。――何が『子供は最強』だ! 俺は子供が大嫌いなんだ! あいつらは右も左もわからないくせに、わがままばかり繰り返す悪魔みたいな存在だぞ! 今日この段階から、あの本を読んでいると思われる行動をとっている社員の評価は全部マイナスにするからな。お前もよく覚えておけ。そして今日中にこの本を読んで、それらしい行動をしている社員を見つけ次第俺に報告するように! 以上だ!」

「――はい! わかりました!」

 単に子供が嫌いなだけでは……と思ったものの、何の口答えもせず、僕は本を片手におとなしくデスクから離れた。何せ、僕が手にしているカバンにはもう一冊の本が入っているのだ。タイトルは――『最強の子供学』。この時ばかりは、自分が本を読むのが遅いことに感謝せざるを得なかった。



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「欲しいものリスト」に眠っている本を買いたいです!(*´ω`*)