『エッセイ』と『コラム』と『日記』は何が違うのか【決定版】
noteには「タグ」機能があって、書いたものに好きなようにタグをつけることができます。
そして私自身、noteを始めたころに大変頭を悩ませたことがあります。それが、「エッセイ」と「コラム」の違い。そして「エッセイ」と「日記」の違いです。雑多な記事を書いていた私にとって、これは結構大きな問題でした。もちろんどのタグをいくつつけても良いのだから、二つでも三つでも付けたらよいのですけれど、どうせならきちんと違いを理解してから使いたい。
そんなわけで、私が勝手にいろいろ調べて、考えたことを『完全版』としてここにまとめておきます。もちろん私の解釈なので諸説ありますし、そもそも諸説あるものだと思いますので、好きなところを好きなように解釈してください。
――では、結論から先に言いますね。
①『エッセイ』と『コラム』に中身の違いはない。書いたものが「何らかの媒体の一部」であればコラム。そうでなければエッセイ。
②『エッセイ』『コラム』と『日記』の違いは、他者に読まれることを前提にして書かれているかどうかで決まる。
以上二点です。では解説していきましょう。
①『エッセイ』と『コラム』に中身の違いはない。書いたものが「何らかの媒体」の一部であればコラム。そうでなければエッセイ。
コラムと聞いたときに、「雑誌のコラムで……」という表現が一番なじみが深いのではないでしょうか。あとは「新聞のコラムで……」という形でしょうか。逆に「本のコラムで……」という表現はあまり見受けられません。
これは『コラム』という言葉が、媒体の一部分に発表されることを前提にしたものだからです。「本の一部に、様々な記事が載っている」ということはあまりありません。
媒体の一部であれば「コラム」と呼称することができます。それ以外のものは少なくともコラムではない何かになります。世の中にエッセイかコラムかしかないのであれば、自動的にエッセイになるわけです。
中身の違いではなく、「どのような場所に書くか」によって呼び方が異なってくるというわけです。
ここで一つ疑問になるのは、このnoteという媒体に上げられた記事は、「媒体の一部」なのか。……つまり、これを『コラム』と呼ぶことができるのかどうか。ということです。
そしてこの部分に関していうと、これはもはやとらえ方の問題でしょう。noteという媒体の中で書いており、私はその一部だ。というイメージで書いている人もいれば、私は書く場所があったからここで書いているだけ、という人もいるでしょう。前者であれば、コラムですし、後者であればそうではありません。
つまり、noteで記事を書くことが「コラム」かどうか、はその人の意識にゆだねられるのです。
②『エッセイ』や『コラム』と『日記』の違いは、他者に読まれることを前提にして書かれているかどうかで決まる。
今日は、コンビニ行って甘いものを買いました。レジでくじが引けたけれど、欲しいものは当たりませんでした。
と書いてあっても、日記なら何の問題もありません。しかし、これがエッセイであると主張されたら、やはり日記に近いナニカなのではないかと私は感じます。
読まれることを前提に書かれていると思えないからです。起こったこと、感じたことをただつづったもの。人に見せることを前提にしていないもの。それが日記とされるべきなのではないでしょうか。
もちろん、この解釈は人によって「見せる」「見せない」による表現の基準も違います。エッセイを書こうと思って書いていても、日記にしか見えない文章を書く人もいれば、どこまでも内向きで、誰に見せるため書いていなくとも、エッセイと呼んで差し支えない文章もあるでしょう。
この辺りの話は、仲さんが「描写しなければならない」という表現で書かれていました。人から見られるという前提を持つのであれば、作品は「描写」されるべきであり、それこそがエッセイなのだ、と私は解釈しています。
結局こちらも読み手、そして書き手の基準によって変わってくる話ではありますが、見られていることを意識し、描写できているものが『エッセイ』。その基準にみたないものは『日記』と呼ばれるべきなのではないでしょうか。
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最近、昔書いた、「エッセイと日記の違いはなにか」、とかいうただのそばさんファンの妄言みたいな記事が読まれているらしいので、罪悪感にかられまして、これを決定版として置いておきます。どっちかというと仲さんの記事を上から下まで読んだほうが、役に立つ気がしますね。
どこまでいっても私の中の基準ですが、おそらくここから変わることはないでしょう。何かの参考になったら幸いです。
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