『エッセイ』と『日記』の違いは何か?
カッコよくて、気になるタイトル付けたでしょ?
でも残念だなぁ。
今日の出し物は「『大旅そば』さんファンの会」です(笑
そんな真面目くさって、有益情報流そうなんてさっぱり思っていませんので、よろしくどうぞお願いいたします。
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とりあえず、前菜がてら『大旅そば』さんの記事を一つどうぞ。
……ん? 前菜? いや、これがメインだった。失礼失礼。メインディッシュですどうぞ! 残りの文章は単なる蛇足です(笑
……さてメインも終わったところで。
前にもちょっと触れたことがありますけれど、noteには『日常系』というジャンルがあります。
エッセイの中でも特に、日々の起こったこと、感じたことなど、『特別ではない日常のこと』を、淡々とつづる形式です。ともすると、これは「単なる日記」になってしまう可能性も高いものになります。しかし、そばさんの記事を読めばわかるでしょう。
これは単なる日記などではありません。『日常系』というべき、立派なエッセイ作品なのです。
その才能……というか技術というか。とにかく私は、読むたびに思っているのです。「こんな素敵な文章が書けてうらやましい……」と。
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取りとめのない日常をつづっても「単なる日記」にならない、というのはやはりそこに何らかの要素があるのだと思います。そして、そこにあるのは、まず『客観性』。加えて『作品性』というものではないだろうか。そう私は考えるわけです。
そばさんの記事を分析していくと、
「妻不在で子供を巻き込もうと決める(発起)」
「子供と朝ごはんを作る(その間、孤独のグルメばりのナレーションが入る)」
「To Doリストを作ろうとする(その間、孤独の(以下略」
「妻がいないことの余裕のなさと、その楽しさにも気が付く(気付き)」
「巻き込もうと思っていたけど、巻き込まれた方が楽だった(締め)」
いやーすごい。
分析というか、並べてみただけなんですけど、改めて見ると本当にすごいですね。
だってこれが日記だったら、「子供と朝ごはんを作りました。やること考えたり、大変だったけど楽しかったです」とかになると思うんですよ。
でも、そこに『客観性』があるから、自分の外で行われていることと、中で行われていることがきちんと読者に伝わるように書かれている。他者に読まれている意識を持っているかどうか、というのは当たり前のようで、とても大事なことです。
その上、そこに前向きな『気付き』も盛り込まれている。
『気付き』って多分、どんなものでもいいんですよね。
一方の視点だけから見ていたものと違う考え方。そういうものって、それがどんな些細なモノであっても読んでいて、追体験するのは楽しいんじゃないでしょうか。実際、私はこの気付きに関して「なんだか仲が良さそうでいいな」なんて思いましたし、アクセントとしても素敵ですよね。
そして、圧巻の『締め』。
最初に「巻き込もうと決める」と自分でふっておいて、「巻き込まれた方が楽だった」と、自分でちゃんと回収してるんですよね。そばさんは、あまり意識しないで書いたと言っていますが、こんなもの適当に書かれたら商売あがったりです、商売してませんけど(笑
日常を何気なくつづっているように見えて、『作品』として完成されているそのクオリティ。そばさん! 恐ろしい子!(大変な失礼で申し訳ありません(笑
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いやはや。
これが『日常系』か……恐ろしい世界だ。というのが私のイメージですので、私には日常系は書けないな、と常々思っております(笑
ああゆうの書けるのには、ほんとに憧れるんですけどね。
そんな今日の「『大旅そば』さんファンの会」でした。
ファンクラブの会員の方は、どうぞ拡散してくださいませ(笑
「欲しいものリスト」に眠っている本を買いたいです!(*´ω`*)