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知らない、知らない(なにごともなく、晴天。/吉田篤弘)

まずいコーヒーのことなら、いくらでも話していられる。

――本文より引用

で、始まる小説を、まさしくまずいコーヒーをすすりながら再読していた。「まずいコーヒー」は、どこかの誰かを悪く言っているわけじゃなく、いや、どこかの誰かではあるのか。他ならぬ自分自身。


焙煎に失敗した豆を、試飲していた。まずいというか、クセがひどいというか。とにかく、飲み進めることができない。そういえば、同氏の小説には、「まずいコーヒーの話でよければ、いくらでも話していられる」で始まるものもある(『ソラシド』)。それはさておき。


自宅であるアパートで、コーヒー豆の焙煎までしているぼくだけど、一年前まではコーヒーが飲めなかった。


見ようによっては、たったの一年だ。だから、この一年でできた知人しか、ぼくがコーヒーを飲めることを知らない。し、知人の中には、ぼくがコーヒーを飲めなかったことを知らない人もいる。(まあ、自分で淹れるどころか、焙煎にまで手を出しているんだから、それは驚くか。)


つまるところ、一年より前に知り合った人達は、ぼくとコーヒーの関係値を知らない。秘密にしているわけじゃないんだけど。それを明かす機会もない。そもそも、古い知人のほとんどは、縁が切れている。


古い知人……。懐かしく思う人もいれば、これ以上記憶に居座ってほしくない人もいる。けれど幸いなことに、もしくは残念なことに、彼らのおかげで(彼らのせいで)知らなかった世界が開けたことは、多分にある。


しんでしまいたいときこそ、なぜか見つけることができた。その時々の、ぼくの居場所を。今ではあまり通わなくなった場所も、疎遠になった人もいるけど。ずっと、感謝している。そして、コーヒーを好きになった現在のぼくを伝えられなくて、もどかしい思いがする。


けれど、疎遠になった今の彼らも、ぼくの知らない内に変わって、秘密とは呼べないにせよ、なにかを抱えているのかもしれない。それは、誰かをあたためるだろうか。それとも、冷やしてしまうんだろうか。

どうあがいても手に入らないもの、自分とは無縁と思ってきたものが、ふと気づくと自分の手もとにあったり、あるいは、すぐそばに寄り添うように立っていたりして、人生というのは、先へ進むほどに良くも悪くも意外なものをもたらしてくれる。

――本文より引用

今はまだ、まずいコーヒー豆しか焼けないぼく。(おいしい豆で淹れた場合は別です。)そんなぼくを、知らない人は知らないままでいい。ただ、おいしいのが焼けるようになったら、それを知らない誰かに明かしてみたいと、ひっそり思っている。

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なにごともなく、晴天。 - 吉田篤弘(2013年)※品切れ

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