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どこから行っても「近い」町(猫町/萩原朔太郎)

何処へ行って見ても、同じような人間ばかり住んでおり、同じような村や町やで、同じような単調な生活を繰り返している。

――p9より引用

『猫町』は、小説である。という事実に、少なからず違和感を覚えた。


語り手である「私」は、朔太郎本人でも(おそらく)差し支えなく、『猫町』は、一見かわいらしい名前でありながら、結局のところは、「私」が「私」を通して見えた世界なのである。


「私」が語るところによれば、朔太郎の実体験でも、筋は通る話だ。そもそも、物語は開幕から、朔太郎特有のニヒリズムに捉われている。だから、「私」=朔太郎だと想像するのは、荒唐無稽な話ではない。

私小説(わたくししょうせつ)
文学用語。作者自身の経験や心理を虚構化することなく,そのまま書いた小説。

――コトバンクより一部抜粋

どうやら、小説はフィクションである必要はないらしい。(とはいえ、大半はフィクションらしいけど。)それを考えれば、『猫町』に目を剝いた「私」は、一から作り上げた人物ではなく、作者本人であると考えるのは、おかしな話ではない気がする。


話が長くなってしまったけれど。『猫町』は、(その他の萩原朔太郎作品を含め)未読の読者には、存外かわいらしい小咄のように考えるかもしれない。残念ながら、そんなことはない。見慣れたはずの町が、見当識の混乱によって、まったく違う町に迷い込んだように錯覚する話である。

猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。

――p27より引用

『猫町』が一見魅惑的な町であるように、猫そのものも充分魅力的な存在である。しかし、以上のように淡々とその字を並べられると、不気味なものがある。いとおしさが、おぞましさに反転した瞬間である。


魅力的に見えた町が、一転して猫型ロボットならぬ猫型人間に溢れ返り、そして本来の町の姿を取り戻す。実際の町は、何の変化もない。この一連の流れは、すべて「私」の中で起こったものである。


小説の体を取っているんだから、フィクションであれば、同じ『猫町』でもまったく違った話も書けただろうに。詩人である朔太郎には、小説一つも一筋縄では行かなかったのかもしれない。


自宅からどれだけ離れようと近かろうと関係ない彼だ。どんな町でも見慣れており、新鮮に見えていることだろう。その性質を、娯楽に落とし込んだことで、楽になったこともあるだろうか。たぶん、ない。と、ぼくはぼくの人生を重ねた。

8/18更新

猫町(『猫町 他十七篇』収録) - 萩原朔太郎(1935年発表)

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