イッツ (ア) ファンタスティック

「慣性の法則?」

「うん。……ええと、つまり、君を忘れようと思っても、すぐには忘れられないってこと」

「じゃあ、魔法をかけてあげる」

「魔法?」

「1日目には、体温。2日目には、匂い。3日目には、私自身を、忘れることが出来るように」







「おは、」



そこまで云いかけて、云うべき相手がいないことに気付いた。



そうか。
君は、もういないんだ。



『荷物、全部置いていくから』

『何で? その……困らないの?』

『困る? 困るって、キミが?』



そう、困るのは僕の方だった。



2人分の箸、君のお気に入りのチョコレート、昨日2人で乾杯したグレープフルーツジュース……。この部屋には、僕らの生活がまだ強く根付いていた。こんなの、忘れろという方が難しい。



君は、何時に目を覚ましたんだろう。何時に出ていったんだろう。そして、何時に僕を忘れたんだろう――。



起き抜けのベッドは、まだ温かくて、そのぬくもりの中に、君のぬくもりはどれくらい残っているのか、僕にはわからなかった。







シャンプーは一つしか買わないから、僕も君も、同じものを使っていた。でも、僕と違って、君の髪は、いつもいい匂いがした。



『キミは、洗い方がなってないんだよ』

『洗い方……。匂いって、洗い方で変わるの』

『変わるよ。だって現に、私とキミの匂いは違うじゃない』



だから今日は、君と同じくらい時間をかけて、君と同じくらい丁寧に洗ってみた。でも、やっぱり君と同じ匂いにはならなかった。



「ならなかったよ」

『それはね、』

「それは?」

『キミの洗い方が、なってないんだよ』



君の声が、今でも聴こえる気がした。







「忘れてないよ」



僕は、云った。



「忘れるなんて、出来ないよ」



君がいなくなって、3日が経った。でも、3日前の僕と3日後の僕は、何一つ変わっていなかった。僕は、君を忘れていなかった。僕は、君を好きなままだった。



1日目には、体温。2日目には、匂い。3日目は、君自身を、僕は思い出している。君を忘れていくはずの3日間は、君を忘れないための3日間になっていた。



『忘れることが出来るように』



あれは、君のさしがねだったんだ。僕が、君を忘れないために。君は、僕をきれいさっぱり忘れているのに。



「ひどいなあ」



僕は、泣いていた。



「ひどい人だなあ」



涙は次から次へとこぼれていくのに、記憶は一つ残らず僕の中に留まっていた。



そして、僕は今でも、君の魔法に呪われている。

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