イッツ (ア) ファンタスティック
「慣性の法則?」
「うん。……ええと、つまり、君を忘れようと思っても、すぐには忘れられないってこと」
「じゃあ、魔法をかけてあげる」
「魔法?」
「1日目には、体温。2日目には、匂い。3日目には、私自身を、忘れることが出来るように」
*
「おは、」
そこまで云いかけて、云うべき相手がいないことに気付いた。
そうか。
君は、もういないんだ。
『荷物、全部置いていくから』
『何で? その……困らないの?』
『困る? 困るって、キミが?』
そう、困るのは僕の方だった。
2人分の箸、君のお気に入りのチョコレート、昨日2人で乾杯したグレープフルーツジュース……。この部屋には、僕らの生活がまだ強く根付いていた。こんなの、忘れろという方が難しい。
君は、何時に目を覚ましたんだろう。何時に出ていったんだろう。そして、何時に僕を忘れたんだろう――。
起き抜けのベッドは、まだ温かくて、そのぬくもりの中に、君のぬくもりはどれくらい残っているのか、僕にはわからなかった。
*
シャンプーは一つしか買わないから、僕も君も、同じものを使っていた。でも、僕と違って、君の髪は、いつもいい匂いがした。
『キミは、洗い方がなってないんだよ』
『洗い方……。匂いって、洗い方で変わるの』
『変わるよ。だって現に、私とキミの匂いは違うじゃない』
だから今日は、君と同じくらい時間をかけて、君と同じくらい丁寧に洗ってみた。でも、やっぱり君と同じ匂いにはならなかった。
「ならなかったよ」
『それはね、』
「それは?」
『キミの洗い方が、なってないんだよ』
君の声が、今でも聴こえる気がした。
*
「忘れてないよ」
僕は、云った。
「忘れるなんて、出来ないよ」
君がいなくなって、3日が経った。でも、3日前の僕と3日後の僕は、何一つ変わっていなかった。僕は、君を忘れていなかった。僕は、君を好きなままだった。
1日目には、体温。2日目には、匂い。3日目は、君自身を、僕は思い出している。君を忘れていくはずの3日間は、君を忘れないための3日間になっていた。
『忘れることが出来るように』
あれは、君のさしがねだったんだ。僕が、君を忘れないために。君は、僕をきれいさっぱり忘れているのに。
「ひどいなあ」
僕は、泣いていた。
「ひどい人だなあ」
涙は次から次へとこぼれていくのに、記憶は一つ残らず僕の中に留まっていた。
そして、僕は今でも、君の魔法に呪われている。
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