剥がして、製して、(剥製/アボガド6)
「夢の中では、現実にあるものが、別の何かに置き換えられて登場する」と、ジークムント・フロイトはいっていたけど、現実の中で、現実にあるものを、別の何かに置き換えて表現するのが、アーティストだと僕は思っている。アボガド6さんも、きっと、その内の一人だ。
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心は、目に見えない。
目に見えないものっていうのは、その存在を否定されることがある。
魔法然り。
(その正体は、科学だから。)
神様然り。
(その正体は、人間だから。)
でも、心だけは、いつの時代でも、その存在を肯定されているように思う。それは、人間にしか搭載されていない、尊ぶべきものなのだと。
その尊ぶべき心そのものは、尊ぶべきようなものかといえば、そんなことはない。こんなもの、無くなってしまえ。そう思ったことは、一度や二度じゃきかない。今まで、どれだけ心に振り回されてきたことか。天にも昇るような気持ちにさせられたかと思えば、奈落に突き落とされたような気持ちにさせられることもある。
そんな心を、どうにかして取り出してみようと、試みてきた人は、たくさんいたんだろう。実際に取り出せなくても、せめて、自分の心がどんなものだったのか、記録に(もしくは、記憶に)残しておきたいと思った人も、たくさんいたんだろう。
だから、
書き手がいて、
歌い手がいて、
描き手がいるんだと思う。
その人は、自分の心を描き出したはずだったのに、それを見た人は、「その人の心」を見て、これは「自分の心」だと錯覚して、描き手に、尊敬の念を抱くんだろう。……錯覚でも、いいんだ。誰かの心が、自分の心と似ていたら、安心するんだ。どうしてなのか、わからないけど。
僕にとって、アボガド6さんのイラストが、まさにそうだった。
一目惚れ? だった。
一目腫れ? だった。
一目で、惚れた。この上なく、好きになって。
一目で、腫れた。この上なく、泣き腫らして。
その中にいたのは、美化/醜化 された自分だったから。
触れたくなかったもの。
触れていたかったもの。
目を閉じていたかったもの。
目を開けていたかったもの。
耳をふさいでいたかったもの。
耳をすましていたかったもの。
僕の中で、堆積していたもの。
姿も形も違うけど、それらはたしかに、この中にいた。
「剥製」
今までも――この先もずっと、色褪せないまま、心は、ここにある。
剥製/アボガド6(2019年)
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