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咲かざる者たちよ(第十二話)


 七年後の夏の終わり。その日、喜多山は猛烈な吐き気で目覚めた。早朝四時四十分。一杯の水を飲み干し、マンションのベランダに立つと、そこから見える朝日が徐々に街を染め上げていく様子を眺めた。西に目を移すと祖母の家の跡地が見えた。喜多山は祖母の死後、自宅を売却し、近くのマンションの狭い部屋に一人暮らしをしていた。
 喜多山は一人孤独だった。この世界に喜多山とつながるものなど誰一人としていなかった。喜多山は祖父母の貯金を切り崩して生活していた。一人で財産管理をする喜多山に、投資の話や土地の購入や不動産の話を持ちかけられたりと、七年の間、次々と巧妙な手口で金を奪おうとする輩が喜多山に迫ってきた。その度に舌根に吐き気を感じた。

 日は高く昇り、部屋に戻ると、喜多山はペンを握っていた。家族も友もなく、世界から隔離されたかのような孤独の中で、喜多山は生きる意欲を日増しに無くしていった。喜多山は祖母の遺品整理をしていたときに見つけた、真っ白な手帳を取り出した。喜多山は一息ついてから、遺書を書き始めるべく、ペンを手帳に近づけた。しかし身寄りも友もない喜多山には、遺す意味が何もないと気がついた。すぐにその手帳とペンを、やるせなさと一緒に放り投げてしまった。部屋の隅で雑に開いた手帳には『遺書』とだけ書かれていた。喜多山は、自分の人生はもう、死の間際に遺す意思さえも無意味にすることを、ただ無念に思った。喜多山にとって生きることとは、死ぬことよりも辛いものだった。

 今日も喜多山はアパートの屋上の縁に立ち、広がる街を見下ろしながらため息をついていた。生きることに不適合な自分を、本来の場所と姿へ導かなければならないと心から感じていた。しかしその意思とは裏腹に、喜多山は、指の先端から血の気が引き、白くなるほどにしっかりと屋上にある安全柵を握りしめていた。喜多山は涙を流し、「死すらもわたしを受け入れないのか…」と、夕暮れの屋上でつぶやいた。喜多山は階段を降りて部屋に戻ることにした。喜多山はこれまで何度も往復したため、屋上へと続くこの非常階段のどこに錆がこびりつき、どこに凹みがあるのかを知っていた。既にこの薄暗い階段からの景色を見るのは十回を超えていた。喜多山は部屋の隅に敷かれた薄い布団に横たわり、眠気もない夕刻に目を閉じ、じっと時間を過ごしていた。喜多山は死のきっかけを探していた。このまま眠りにつき、目を開けることなく自然と死ねやしないものかと毎日願った。


 布団の中で夕方の空を見つめたまま五十分程すぎた。しかしどれだけ喜多山が死を望もうとも腹は減り、喉は渇く。喜多山は小雨の中、商店街へと歩いた。
 午後七時をすぎた商店街では店じまいの準備をしている店が多くあったが、それなりに人通りは多く、客と店主で賑わっていた。
 商店街の中程に祖母とよく寄った烏賊焼き屋を見つけた。喜多山は少し離れて立ち止まり、手際よく作業する老店主を見た。その店主は祖母と時に笑い、時に静かに口論するほど深い仲だった。喜多山はあの当時、背後から見ていたその店主と話す祖母の背中を思い出し、俯いて帰ろうとした。すると後ろ遠くから、「あんちゃん、腹減ってんだろ?」と声がした。烏賊焼き屋の店主はこちらを見ることなく喜多山に話しかけた。「あんちゃん、大変だったんだろう。あれから顔見せねえで。飯は食ってるのか?…顔色も悪いし、頬もこけて髪もボサボサじゃねぇかよ。」と、たっぷりと甘口ソースを塗った烏賊焼きを手渡してきた。「…あ。ありがとう…ざいます。」久しぶりに出したその声は、想像以上に小さく掠れていた。そして店主は「これ、あんちゃんのところのばあちゃんの仏壇に供えておいてくれ。…まぁ腹が減ったらあんちゃんが食ってくれ。」と、もう一つ烏賊焼きを渡した。
 数年ぶりに人と話した喜多山は鳥肌が身体いっぱいに立ち、嬉しさや恥ずかしさや驚きなどが混じったただならぬ感情の動きで、涙を堪えるので精一杯だった。商店街を抜けて歩いていると昔よく祖母と座り休憩した石段を見つけた。雨により色が変わり湿っていたが、喜多山は腰掛け通りを眺め、もう今は誰もいない隣の石段の表面を見た。すると今まで堪えていた涙が決壊した河のようにするすると流れ落ちた。喜多山は涙を流しながら烏賊焼きを頬張り、嗚咽しながら祖母の死への悲しみを露わにした。こうして喜多山が石段に座るのは、祖母が死んで以来初めてのことだった。

 喜多山は自宅に戻り、部屋の隅にひっそりと落ちていた白い手帳を手に取り、静かに椅子に腰を下ろしてペンを握り、『幼少期』と書き始めた。これまで孤独だった喜多山の世界に突如として入ってきた烏賊焼き屋の店主との会話がきっかけとなり、喜多山はどうしても自分が生きた証を遺したくなってしまい、喜多山は自分自身について幼少期からの記憶を文字に認めることにした。
 既に夜は更けていた。暗い部屋にぽうっと小さく灯りを燈し、喜多山は手を汚しながら書き続けた。喜多山は忘れようとしていた自分の幼少期を、時間をかけて鮮明に思い出し、細部にわたって書き記した。母と共に過ごした高架下のひっそりとした平家、その中で際立つ母の光沢を放つ真っ赤なハイヒール、母の隠していた洋箪笥の中身や、自分自身が創り出したもう一人の自分、多々良。喜多山は、書いている途中何度も手帳に涙が落ち、袖で拭った。
 他者からの承認を得るため、癒えない過去の傷をえぐりながら苦悶の中で綴り続けることは、未だ癒えぬ古傷に新たな傷を加える行為のようだった。喜多山は、一刻も早い死を夢見て綴り続けた。
 喜多山はその日から、その手帳を肌身離さず持つようにしていた。時には商店街で、またある日はは石段の上に腰掛け、メモのように殴り書いた。
 半年が過ぎた頃にはその手帳は全体的に薄く茶色がかっていた。

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