見出し画像

咲かざる者たちよ(第九話)


 金曜日の午後の授業が終わると喜多山は、荷物をまとめて寮を後にした。数時間電車に揺られ祖父母の家の最寄りの駅へ到着する。毎週末、駅の改札口まで迎えに来てくれる祖母の姿に心踊り、喜びで満たされていた。しかし喜多山はなぜか無理やり平静を装い、古びたグレーのバンに乗り込んだ。
 喜多山は中学からは寮で暮らしていた。山奥にあるその寮は冬になると、鉄の扉が氷そのものであるかのように冷気を放ち続け部屋の隅々まで白く凍てつかせた。喜多山は週末に野球部の練習試合がない週は、金曜日の午後に祖父母の家へと帰ることができた。喜多山は、祖母が運転するグレーの古いバンの後部座席に乗り、先日の部活での出来事を思い出していた。

 喜多山は他の野球部員に比べて遥かに小柄だった。筋力も乏しく、彼の日課はもっぱら球拾いと走り込みだった。しかし、彼の顔にはいつも笑みが絶えなかった。二、三十人の部員の中で、初めて野球を学ぶ喜多山は、毎日遅くまで熱心に練習に打ち込んでいた。

 ある夕暮れ、数人の部員たちがグラウンド整備のために最後まで残っていた。ベンチに入れなかった彼らの一人が、ふと喜多山のまくり上げた袖から覗く濃い桃色の傷跡に気づき、問い詰めたことがあった。それは、かつて母と暮らしていた家の窓ガラスの破片で負った痛ましい怪我の痕だった。喜多山は瞬時に袖を戻し、「これは、小さい頃に自転車で…」と、苦し紛れに嘘をついた。

やがて月日が流れ、祖父母の家での温かい暮らしや寮でのルームメイトとの穏やかな日々の中で、喜多山はその傷の存在すら忘れることがある自分にふと驚きを覚えることがあった。

ある日、祖母が運転する車の中で、喜多山は親指の付け根から肘にかけて川のように延びた傷跡を指でなぞりながら、過ぎ去った時間の流れと共に薄れゆく記憶に思いを馳せていた。

 祖父母の家に着くと、喜多山はすぐに自分の部屋へ籠った。居間に長くいると、酒に酔った祖父が口やかましくなるからだ。祖父と祖母が初めて出会ったのは、同じ銀行でのことだったと聞いたことがある。祖父はその銀行の中でも特に優れたエリートであり、そのことを祖母は誇らしげに語った。しかし今や、祖父は酒に溺れ、時には祖母に酷い言葉を投げかけ、物を投げつけては激昂することが常となっていた。喜多山は、見た目はただの水のようなあの液体が、どうしてこれほどまでに身体も心も脳も蝕んでしまうのかと、恐れと戦慄を覚えたものであった。
祖父が眠りについた後の一時間ほどが、唯一祖母とゆっくり話せる時間だった。
「水曜日の野球の試合、どうだった?」と、尋ねる祖母の顔を見ずに喜多山は、「うん、まぁ、勝ったけど。」とぶっきらぼうに答えた。しかし祖母は、「すごいじゃないの。よく頑張ったね。」と、皿を洗う音をかき消すほどの声で喜多山を褒めた。すると喜多山は少し恥ずかしくなり、「僕はベンチ外だったけどね。」と、また冷たく返した。
 喜多山は少し後悔した。

 喜多山の祖母は、喜多山が母からの愛情の欠落から自宅に火を放ったこと、自宅と学校での性格のギャップなど全て養護教諭や警察から聞いていた。祖母は、本来母親から受けるはずだった、子の成長において必要不可欠な愛情を孫である喜多山へと注ぎ育てることを決意した。しかし家に居る夫(喜多山の祖父)は酒により人が変わってしまい、介護を必要とするようになってしまっていた。喜多山の祖母は、孫の喜多山に協調性や人との調和を学ばせるためにも中学からは喜多山を寮に入れることを決意した。ほぼ毎週末家に帰ってくる孫の姿が待ち遠しく日々過ごしていた。

 喜多山は、祖母が作る長芋を擂ってご飯にかけるとろろご飯が大好きだった。木でできた先端の丸い擂り棒を太い指で力強く握りしめ、臙脂色の擂り鉢いっぱいに大きくかき混ぜるその姿を喜多山はよく祖母の横にある椅子に座り眺めていた。出来上がったとろろご飯は刺身醤油で全体がらくだ色に染まり、甘さと美味しさに箸が進んだ。毎週末目の前で温かいご飯を作ってくれる祖母の姿を喜多山はいつもまじまじと見ていた。使い古されポケットのあたりが黒く汚れたエプロン、捲った袖から見える年齢に相応しく伸びた皮の下に隆起した年齢に相応しくないほどに隆々とした腕の筋肉の流れ、太い指と分厚く黄ばんだ爪、そして尻まで長い、白と灰色とが混在する髪を、後頭部に一つの団子状にまとめ上げたその髪型。喜多山は祖母の全てを見ていた。この時間だけ子どもに戻った気分だった。

 中学二年になった頃から祖父の行動に異変が訪れた。肌は黒々としており、発言は支離滅裂になり始めて、目は窪み落ち、いつ見ても全身をかたかたと震わせ、弛んだシャツの首元から見える胸部には、生きて動いていることが不思議なほどにやつれ肋骨が一本一本影を作り、浮き上がってやつれている。そのおかげで祖母の介護の負担が大きくなり、週末、喜多山が駅に到着しても祖母がどうしても迎えに来れず、駅の出口で二時間待ったこともあった。
 家では祖母は祖父の介護に追われていた。今日は初めてベンチに入ったことを報告したかったが、祖父が居間で漏らした排泄物の片付けで祖母はそれどころではなさそうだった。更にズボンを脱がせる祖母に対して訳のわからぬ暴言を吐く祖父の姿に、喜多山は鬼を見た。
 そしてある日は、楽しい祖母との会話を遮るように発狂をしお互いに聞き取ることができなくなったこともあった。祖母は「ごめんねぇ。また後で聞くねぇ。」と悲しい声で喜多山に引きつった笑顔を見せ、祖父の涎を拭いた。
 喜多山は悟った。人は誰しも心に鬼を飼っており、祖父は酒によりその鬼を制御できなくなってしまっただけなのだと。
 再び喜多山は祖父に目を移した。頭蓋骨に茶色く萎んだ皮をまとわりつかせ、そのこめかみに不様に生え散った薄黒い毛をふわふわとなびかせ、まるで木彫り人形のような顔で真っ黒い目だけを光らせてこちらを見てきた。喜多山は余りにも気味が悪く、目を背けてしまった。すると祖父はこちらへ向けて何かを絶叫してきた。その口の中を正面から見ると真っ黒い歯と、欠けて橙色になっている歯が少しだけ見えた。さらに祖父は暴れた。その日は祖母の制御を振り払い、ラベルに英語が書かれた真っ赤な瓶を手に取った。その瞬間祖父がそれを地面に叩きつけ床一面に血の池のように赤いワインの水溜りができた。あまりの音と衝撃に祖母は耳を抑えて小さくなっていた。そして真っ赤な破片と紅い液体が玄関にまで達しているのを喜多山は見た。
その時、喜多山は鉄砲で撃ち抜かれたかのように、幾つも折り重なるように断片的な記憶や感覚が一瞬にして脳裏をよぎった。大好きだった母との暮らしや、母のいない日々の寂しさ、そして燃え盛る多々良の姿や、渇いた火の粉の音、そして母の真っ赤なヒール。
 喜多山は目眩により、よたよたと姿勢を崩したかと思うとそのまま後ろにある本棚へぶつかってしまい気を失ってしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?