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8月15日、あの頃のあなた

小学生の時「身近な人に戦争体験を聞いてくる」という宿題があった。細かいことは覚えていない。
ただそういう宿題があって、久米島の祖母に電話したことを覚えている。

思い当たる人物が居なくて祖母に電話をかけた。でも後から悪いことしたかなと思った。
もしかしたら祖母はショックだったかもしれない。

何故ならうちの祖母は戦後すぐの生まれだった。
戦時中を知らない世代だった。意外と若い。
(幸運にも祖母の故郷は戦争被害を免れていた)

「…その、みんながね、貧乏で。小麦粉の袋…結構大きくて、それに穴開けて子どもたちは洋服代わりにしたりね。……お菓子とかもないからね、今ほど贅沢ではなかったよ。うん。……これで宿題書けそうね??」

って感じだった。
「書けるか分からけどありがとう」と電話を切った。
あの時は「これ戦争体験かな?」とか深く考えず目の前の宿題に取り組んだ。
「年寄り扱いされたと落ち込んだかもな」と思ったのは中学にあがってからだ。祖母の年齢を初めて知ったのがその時だから。
孫の期待に答えてくれた祖母に感謝したい。

というわけで、私が学生時代に聞いた戦争体験は"語り部"と呼ばれる人たちの体験談、平和学習で訪れる資料館、図書館にある本が主だった。
悲惨で恐ろしい体験談ばかりだ。

介護職に就いてから戦時中の話を聞く機会が増えた。
それは意図せず聞いた話が多い。
レクリエーションの一つに思い出を語るというものがあるし、認知症の方は昔の事の方が鮮明に覚えているので昔の話を好む事が多いからだ。
そして私も20代と若かったので、そんな若者を見ては自分の若い頃に重ね合わせているようだった。

ケース1:小学生だった私

小学生でした。裕福な家庭だったし疎開で内地に行けたり楽しかった記憶の方が多いの。帰ってきてからも被害は少なく親の商売が傾くこともなかったのであまり苦労はしませんでした。
結婚してお嬢様だった私はいじめられました。その時が人生で1番不幸だった(笑)
唯一戦時の子どもだったんだなと思うのは、体育の時間に竹やりで敵を殺す訓練をした事です。チャンバラごっこみたいな感覚でした。

↑「竹やりで飛行機に勝てないさーねーwww」
 似た境遇の元お嬢様同士のおばぁが話していた。

ケース2:高校に落ちた私

あなたの顔を見た時にとても驚いたの。◯◯ちゃんにそっくりだなぁって…。親戚だったりして。
ひめゆりってわかる?ガマ(鍾乳洞)で看護婦さんの仕事を高校生がしてたわけ。◯◯ちゃんはひめゆりで死んだはずよ。戦後も家には帰って来なかったさー。

私は高校に落ちて◯◯ちゃんは受かった。それからやっぱり別々の友達ができるから自然と疎遠になったね。話すけど、昔ほどはね。
それから彼女の高校はひめゆりに学徒出陣が決まった。「行ってくるねーまたねー!」って軽く言ってそれきり。…学校では日本は勝つと教えられてたから不安に思わなかったのかもしれないね。
人生って不思議だね。頭の悪い私が生き残って、頭の良いあの子が死んだ。今でも不思議さー。

↑初対面の時に。急に泣きながら話してくれた。もしかしたら女性職員みんなに言ってたかも。

ケース3:大人が頼れなかった私

親に縁がなくて長女の私が弟妹の面倒みてたよ。お金がないから昼は山の中でひっそり過ごして、夜になったら下りて畑のものとか盗んで山に戻るわけ。
戦後も妹は諦めてもらったけど、弟だけは大学に行かせたくて死ぬほど働いたよ!
恋する暇なんてないさ。婚期も逃したさ(苦笑)
だから子どもも居ないけど、今になって弟妹が姉さん孝行してくれる。頑張って良かったなって思うよ。やった分返ってきた。アンタも頑張りなさいよー。

↑せん妄(体調不良や術後に幻覚が見えたり不安定になる症状)時に、家族にいない男性の名前を呼び続けていた。体調の良い時に「◯◯さんって人わかる?」って聞いたらとても照れて「唯一の初恋さー!」と叩かれた。

ケース4:葬式が終わってた私

ひめゆりとか、テレビでやるほどの体験はしてないけどね。私も学徒で山原から那覇に出てたよ。すぐ捕まって捕虜になったから、結局なーんもしないで施設で小さい孤児の面倒みて過ごしてたさ。みんな可愛かったよー!
ご飯もそれなりに食べれたし運が良かったね。
ただ山原は遠いから誰もそんなこと知らないさ。電話もないし。もう死んだと思われててね、戦後帰ってきたらもう親戚みんな驚いて両親は大泣きしていたよ。驚いたねー。

↑クールで頭の良い方で淡々と話すクセがあった。家族一同の気持ちを思えば大騒動なのに。本人が1番冷静。

ケース5:帰ってきたら嫁がいた俺

戦争で1番びっくりしたのは南洋から帰ってきてすぐ「お前はお隣の◯子と結婚しれー」って言われて年下の幼馴染と結婚させられた事。南洋であったことは吹き飛んだよ。

↑南洋での話も気になるのに!
なんやかんやおしどり夫婦でした。

ケース6:海が友達だった僕

今でも南洋に帰りたいさー。家の目の前が海でよ。学校終わったらすぐ海で遊ぶ。外人と友達にはなれんかったから、僕の友達は魚さー。南洋の魚は美味しかったよ。

↑帰宅願望の強いオジィだった。
それにしても帰宅する場所が遠すぎる。

他にもオジィの場合、戦後はカメジロー(瀬長亀次郎:政治家)とアメリカ世(ユー)から日本世(ユー)にしようと戦い続けたさー!と政治情勢が印象的だった人が多かった。
彼らの中で平和のための戦争は終わってないのだろうと思った。武力を使わない戦いは今も続いている。

思いがけず聞いた戦争体験
あの頃も今も生きている!

そういった戦争体験には彼らの日常があった。
その中でも興味深かったものを書き出した。
(尚、数回に渡って聞いた話だったり認知症の方から聞いた話なので私の要約や補足が含まれている。また人物を特定できないように内容を変えた部分もある)

次世代への継承が難しくなる中、少しでも記録の一部を残せたらと思い終戦記念の今日、投稿してみた。

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