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自分の役割を重荷に感じたり,思い上がることもなく,淡々と受け入れること

Tomokiです.暦上は春になった.今年度もそろそろ節目を超えようとしている.僕の会社も早くも4周年を迎えようとしているのだなと思うと,少し感慨深いところがある.いわゆる普通の会社っぽくない,それどころか自分自身が普通とは違うような生き方をおそらくしているのに,特に不自由なく困ることもなく毎日を穏やかに,それでいてクリエイティブに過ごすことが出来ているのは一言で言って奇跡としか言いようがない気がする.それはまるで神様に愛されているかのようだ.そんな偉大な存在に感謝しつつ,同じくらい周りの環境に感謝しながら過ごしている.

幼い頃は何でも一人で出来ないと思っていたけれど,今になって,自分が出来ないことや苦手なことを認めた上で,自分にしか出来ないことや,自分の世界に対しての役割みたいなことを意識することが増えた.それは別に世界に対して傲慢になっているわけじゃなく,自分一人がこの時代に,この場所にいて,何かしら些細でも影響を残したことに意味があるのではないかと思ってきた.それは僕にとって最大限の自己肯定になっている気がする.おそらく人生最大限の自己肯定感を得て,僕は前よりも創造性が増しているのを感じる.本来の創造性がこれだったのだろう.

そうやって自分自身と向き合って,漸く自分自身を受け入れた瞬間に,本当に自分がしたいことはなんだったのか.それは誰かにどう見られたいとか,社会的な立場を抜きにして,何に幸せを感じて,もっとも自分に一致しているように感じるのかを改めて見たときに,少し意外なところに個人的には落ち着いたので今日はそんな話.

とにかく作ることが好きだった

振り返ってみるととにかく何か物づくりをすることが好きだったのが印象的だ.もともとはプログラミングなどが好きで始めたものの,コンピュータだけではなく木工や金属加工や電子回路などにも色々手を出し始めたし,最近では彫金も頻繁ではないものの始めたりした.他にもいつか手を出したいなと思っているのは革靴を作ったり,洋服を作ったり,ギターを作ってみたりしたいなと思いつつ,手間や知識や必要な工具類などを考えて,少し様子を見ていたりするくらいだ.そういえば幼少期は忍者が好きで,武士などに興味があって,日本刀を作ってみたいなんて思ってたことがあった気がする.

とにかく何でもかんでも作ってみたかったようで,その気持ちは今でもずっと持ち続けている.同じように絵だったり3DCGだったりアニメだったり音楽だったり,サウンドエフェクトという風にも波及していて,とてもじゃないけれど自分の手だけでは回らないものばかりに色々と興味を馳せている.

それらは到底,何か主軸のようなものがあるようには思えない.それは自分自身も感じていて,一度コンピュータの世界に入って,機械学習の研究に集中しようとしたことがある.結果的には自分が求めているものと大きな乖離を感じてしまって,最終的にはその道から外れることとなった.とはいえ,機械学習の研究者という肩書きではなくても,AIやDeep Learningの研究を追っかけたり,その過程で何か物づくりをすること自体は楽しかったので,れっきとした”研究者”としてではないものの,個人的な探究自体は続けている.

そうやっていろいろな自分を振り返ってみたときに,僕の主軸は物づくりそのものにはなかったのだということに最近確信めいたものを感じるようになってきた.

物づくりは目的ではなくて手段だった

どうやら僕のあらゆる物づくりは手段だったようだ.色々なものを作ったり,その技術を学んだりすること自体はとても好きだけれど,それは自分の目的として完結するわけではなかった.

それよりも僕にとって大切だったのは,人々との繋がりを感じることだった.もともと僕がプログラミングを始めたのはゲームを作りたかったからだ.しかし,そのゲームを作りたかったのも,きっと自分自身がゲームが好きで,ゲームをきっかけに色々な人と話したり交流するようなことが好きだったんだ.だから,僕は物づくりを単に何かを創ろうとするためではなく,創る中で繋がる人との繋がりだったり,作った物によって人と人との交流をつくるきっかけになったり,促進したり,あるいは心を支えてくれるような物づくりをすること自体がとても好きだった.

だからこそ,僕は文化祭のように,何か創ったものを来場者が触ってくれて,その中で親子や友人間での会話が生まれたり,思い出ができていく瞬間にとても幸福感を感じた.それはまるでソーシャルデザインのような物に似ている.

だから,僕は自分のことを傲慢さではなく,一種の憧れや抵抗感を超えて「アーティスト」なのだと認めるようになってきた.それは決して格好つけようと思ったり,社会的立場を手に入れようと思うのではなく,自分はどうしようもなくアーティストでしかないのだという一種の諦観だった.正直僕は自分のことをアーティストと呼んだり,自称することは少し怖かった.大したことはできないし,所謂普通のアーティストっぽくはない.それは自分を経営者や社長と呼ぶことに似ている.後者は明確な定義がある以上,自分に当てはまるので,紛れもない事実として「経営者」であり「社長」である.しかし,アーティストは曖昧な定義でしかない.

しかし,他人がどう自分を見ようと関係なく,自分が最も自然で一致した無理のない等身大で毎日を過ごすならば,全ての恐怖を克服したときに,僕は誰かの愛を伝えたり,愛であるために,物づくりをするのだろうという確信が年々強くなってきた.そして,それこそが自分の最も幸福に感じる瞬間なのだろうということに気づいてきた.

肩肘を張らず,自分が自然であることを続ける

今までずっと僕は自分が最も自然にやりたいと思っていたことを,どうやら他人からの見られ方だったり,自分への自己否定だったり,罪悪感に邪魔されて,受け入れることにずっと抵抗してきたようだ.

逆に傲慢になって自分の力を過信して豪語するのでさえ,間違いなのだろう.これはたまたま僕に与えられた役割でしかないし.そこに優劣はないし,特別なものでもない.自分が一番辛くなくて,無理をしなくて,それでも世界のために些細でもできることが,そういった形であったというだけだったんだろう.それを僕はアーティストに対する過剰な憧れによって黒く塗りつぶしてしまっていたし,勝手に罪悪感を作り出してしまっていた.

それならば重荷になるような肩書きを捨てて,自分が最も自然である生き方に身を委ねてみるのが一番正しいのだろう.無理のないふと湧き出てきた自然な衝動で,人と対話して,協力して,些細な何かを作り上げて,そこで交差しあえた人々と喜びを分かり合っていく,そのひとつひとつを大切にして,毎日を過ごしていこうと決めた.自分が誰かにとっての微力ながらでも愛の道具になれていることを信じて,何かこの世界に恩返しをしながら生きていこう.

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