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自己責任論者は、まだ私の中にいる

政治と宗教の一件を、私はまだ許していない。というか、両者がこんな調子なので、私はこれからも怒り続けると思う。

7月の某日、私は鍼に行っていた。終わる頃を見計らって迎えに来た母の車で、あの事件を見聞きした。

この先しばらく国政選挙はないとされる、大事な参院選の途中。私は韓国から帰国したばかりで、投票権がなかったけれど、この選挙を注視していた。


と同時に、この時の私は何も知らなかったと言わざるを得ない

政治の表層の表層だけを見ていて、その表層のなかで情報を得たつもりになっていた。

あの事件が起きたから、私たちは政治の違和感の正体を知った。私たち国民に明かされなかった、汚点にたどり着くことができた。


汚い政治を許さない


自民党を中心とした統一教会との癒着を、私は決して許さない。

政治は、政治家のためのものではない。もちろん、特定の宗教のためのものでもない。

政治は、市民のためのものである。

健常でも障害があっても、生きていくことに何か障壁があったとしても、等しく誰もが生きられる世の中を作るためのもの。

それを信頼するから、私たち市民はお金を払う。

人気投票をして、その人に献金しているのではない。私たちが生きるための政治をしてくれるから、対価として支払っているというものだ。


自分の嫌な部分を見た


政治と宗教の一件で、私は間違いなく怒っている。被害に遭われた方たちを思うと胸が痛む。

だけどこの一件で、私は私の嫌な部分にも気づいてしまった。この気持ちは、見過ごさずに持っておかねばならないと思う。


どういうことかといえば、数日前、地元紙のウェブ版に統一教会の被害者家族の記事を見つけた。

とはいっても、有料記事だったから、私が見たのはほんの一部だけ。妻が信者になってしまい、息子を失ったという話が書かれていた。

この記事を見た時、私には反射的に「きっと妻には妻の苦しみがあったんだよな」という思いが浮かんだ。

もっと正直にいえば、「妻の話を聞く夫だったのだろうか」という気持ちが浮かんだ。

すぐにハッとしたけれど、私は自分の嫌なところに気がついた。私の中には、自己責任論者がいる。


自己責任論者は、まだ私の中にいる


政治とは、自力ではうまく生きていけない方でも、生きられる社会を作るものである。

ここ数か月学んだ結果、私はこういう結論を持っている。そしてそんな社会を作るべく、私なりの新たな挑戦も始めている。

だけど、私のなかには自己責任論者が居座っている。偏った見方をなくそうと行動してきたつもりだったけど、まだ私の中にいた。

その証拠が、「夫が妻の話を聞かなかったから、妻がカルトに染められてしまったのではないか」という思考だった。


30年生きてきて、同時に育ててきた自己責任論を、私はまだ手放せていない。ずっと持ってきた価値観を根っこから手放すことは容易ではない。

そう思い知った出来事だった。

私にはまだ偏見があることを感じながら、これからも偏見を手放すことをしつつ、日本の政治を変えることに微力ながら関わっていきたいと思う。


7年半勤めた会社を30歳で辞め、好きな場所に住んで好きな仕事をする人生を作り直すと決めました。サポートいただいたお金は、退職後にお仕事にしているコーチングのスキル向上や、noteを書き続けるための生活に使用します🙇🏻これからも記事を通してみなさんと繋がれたら嬉しいです☺️