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差別を目にするのは悔しい

どんなに仲のいい友人でも、人としては好きな相手でも、思想が合わないことがある。そんな記事を、2年ほど前に書いた。


この葛藤にぶち当たることは多くないその後だったけれど、最近私はまた「人として好き」と「思想の違い」に葛藤している。

たわいなく友人付き合いをする程度には、楽しくてなんの問題もない。ただ、少しこみいって思想の話になると、決定的に異なることに気づく。

そんなことが、相手を知れば知るほど起きる。大事な友人だからこそ、相手を深く知るからこそ起きうるこの問題に、私は矛盾を感じながら葛藤する。


でもやっぱり、私は私の思想がとても大事。私には私が大事にする信念があるので、人付き合いのために友人の思想に合わせることは絶対にない。

たとえば女性の権利、LGBTQ、人種差別、などなど。私が30年生きてきて形成してきた信念は、もうすっかり強く幹ができていて、簡単には折れない。

だからこそ、反するものに出会った時、深く傷を受けることがある。回復するまでに時間を要することもある。これが人付き合いの難しいところ。


この記事を書いている今日の私は、まさにその傷を受けとったところ。

少し愚痴を言うけれど、どんな行動がゲイだとか、有名人の誰がゲイだとか、ほんっとうにそんなことってどうでもよくない?

どうでもいい話なら、わざわざ口に出さなくてよくない?口に出して、誰かに傷を与えなくてよくない?

口に出すということは、その言葉や思想を誰かに渡すということ。

「悪い話」ほどの自覚はなくても、「胸をはれる話ではない」ともしわかっているのなら、そんな言葉は外に出さないでほしい。

そう思って、私はすごく悔しくなる。


異なる思想に出会った時、反論をするべきなのか、するならどう言うべきか、この言語でどう表現するかなどと考えるうちに、外側の私は停止する。

なんとなく伝えられないままに、後味のわるい話をただよわせたままに話が閉じる。伝えられない自分のことが、すっごく悔しい。


差別を目にするのは悔しい。人は無意識に偏見を持つものだけれど、人は考えることのできる生き物なのだから、偏見を外すこともできるはず。

「〇〇人だから」「トランスジェンダーだから」「同性が好きだから」みたいなことで、いつまで差別をするのだろう。現代を生きようよ。

ケンカ腰に話してしまいそうになりながら、私は好戦的な私を止める。この問題の解決方法は、私たちのケンカではないはずと。


差別を目にするのが悔しい。自分の親が、兄弟が、子どもが、差別をされたらどう思うか。身近な誰かで想像してみるのも、悪くないと思うけど。

もっとお互いが自分らしく生きることを許して、生きやすい世の中になればいいのに。今日の私もそう願いながら、私にできることを続ける。


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