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映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』を観て

すごい映画を観てしまった。・・・これが映画が幕を閉じた瞬間の最初に浮かんだ言葉だった。

観たのは『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』。Amazon Primeで400円でレンタルした。

2020年という最近の映画で、「ウクライナ 映画」とググった時に辿り着いた現代ビジネスの記事「ウクライナ情勢を語るために、日本人が絶対に観なければいけない5つの映画がある』でこの映画の存在を初めて知った。

筆者猪瀬直樹氏によれば、以下5作が「ウクライナ情勢を語るために日本人が観るべき映画」であると紹介されている。

①『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』(2020) 
②『バトルフィールド クルーティの戦い』(2019)
③『ミュンヘン 戦火燃ゆる前に』(Netflixオリジナル、2021)
④『バンデラス ウクライナの英雄』(2018)
⑤『ウィンターオンファイヤー  ウクライナ、自由への戦い』(Netflixオリジナル、2015)

このうち、①〜③は戦前の話。④⑤は、2014年にクリミア併合以外に起きていたウクライナ事変についての話である。私はすでに③はNetflixでたまたま観ていたので、先週の日曜日と今日土曜日に続けて②、①の順で観た。猪瀬氏の記事のおすすめ順に観なかったのは、内容の時系列を重視したためである。

さて、そんなわけで今日観たのは①『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』なのだけど、とにかくすごかった。

これは、1930年代両大戦の戦間期が舞台。イギリスの若きジャーナリストであるガレス・ジョーンズという実在する人物が主人公。彼は、世界恐慌がヨーロッパ諸国を吹き荒れる中で「なぜソ連だけが繁栄しているのか?」と素朴に疑問を持ち、ジャーナリズム精神で単身ソ連に乗り込んで取材するというストーリーだ。

映画冒頭、家畜の豚がブヒブヒ鼻を鳴らしている農場を窓辺に、ある男がタイプライターで小説らしきものを書いているシーンから始まる。その映像を観た瞬間、私はジョージ・オーウェルの『動物農場』を思い出した。ちょうど昨日、仕事の休憩時間に買ってまさに読み始めたばかりだったのである。

いつだったか、朝日新聞で読んだ天声人語に『動物農場』のことが出てきて、「へー、ジョージ・オーウェルは『1984』しか読んでないなぁ」と思ったので、本屋でこの本を見つけた時「あ!」と思って手に取ったのである。しかも帯にはまさに「天声人語で紹介!」と親切にも書いてあった。ミーハーな感じがしたけど、そのまま買った。

ジョージ・オーウェルも『動物農場』も知らない人のために、帯の続きを紹介しておこう。

「ロシア革命に材を取り、スターリンの独裁政治を皮肉った寓話だが、旧ソ連を思い出すだけではもったいない」

朝日新聞2021年1月1日、ジョージ・オーウェル『動物農場』帯より二次引用

さて、映画に話を戻そう。豚がブヒブヒ鳴いてる映像に続いて、「''荘園農場のジョーンズさんは鶏小屋に鍵をかけ・・・''」というセリフを皮切りに物語の主題が始まった。

・・・って!このセリフ、もろ『動物農場』じゃん!!!ジョージ・オーウェルの映画を観始めたつもりはなかったのに、やはりこれはジョージ・オーウェルとしか思われない!うろ覚えだけど顔も似てる気がする。

一体どういうこと!?一気に心拍数が上がり、俄然続きが楽しみになった。

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その後、ところどころでジョージ・オーウェルらしき人物の描写に戻り、その度に『動物農場』の中の象徴的な部分が引用されていた。私は昨日の昼休みに30分間『動物農場』を読み始めただけだったし、映画の途中でストーリー展開にはまだ未知の部分が残っていたけれど、その引用が『動物農場』であることはもはや疑いようがなかった。

なにしろ、『動物農場』は資本家により搾取されていた労働者が、人間により搾取されていた動物に喩えられているだけの、ソ連完コピの世界観なのだ。ちなみに豚は、最も知恵が働くことから「平等な動物たち」の中でリーダーシップを取る役まわりの動物だ。

映画のストーリー後半で、ジャーナリストの主人公ガレス・ジョーンズはジョージ・オーウェルと知り合う。こうして伏線は回収され、『動物農場』の誕生秘話もさりげなくストーリーに組み込まれていた。この辺りはやや唐突ではあった。しかしこの映画が実話をもとにしていることを考えれば、ガレス・ジョーンズが観たソ連の真実とジョージ・オーウェルの不朽の政治風刺の関連性をこれ以上上手に描き出すことはできないだろう。

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共産主義の構造をわかりやすい寓話で巧みに描いている『動物農場』以外にも、心に残る新鮮な驚きはいくつもあった。

まず、第二次世界大戦が始まる数年前まで、ヨーロッパ諸国の政府や高官たちの間でナチス・ドイツやソ連を脅威だと認識している人はほとんどいなかったということ。また、ナチスやソ連は世界にとって恐ろしい存在であり、大勢の人を奪うことになるだろうという警鐘を鳴らす人がいても、一笑に付されていたということ。

私は歴史の後に生まれたからその後の展開を知っている。ナチスがしたことも、ソ連がしたことも、ドイツやソ連がその後どうなったかも、知っている。でも当時を生きる人はまだ知らない。いや、私だって全てを知っているわけではない。

例えば、ー話は逸れるがーこの映画で主人公が暴く真実「ホロドモール」を知ったのは世界史の教科書ではなくカナダで働いていた時だった。ホロドモールとは、スターリンが行った五カ年計画の一環で行われた集団農場化により引き起こされ、ウクライナで起きた人為的飢饉のことをいう。1932-1933年の間に何百万人もの人が飢餓で亡くなり、ホロコーストと並ぶ20世紀最大の悲劇と言われる。ホロコーストは学校教育で習った記憶があるけれど、ホロドモールを習った記憶はない。(勉強不足だっただけかもしれないけど。)

だから、カナダで友人に教えてもらうことがなければ、この映画に出てきたホロドモールの描写もそこまで心に響くことはなかったと思う。(もっと言えば、カナダでマイナス28℃の中を歩いた経験がなければ、モスクワやウクライナの極寒の厳しさを想像することも難しかっただろう。私が2年間暮らしたオタワの真冬の平均気温はマイナス18℃くらいだった。どんな雪の日でも片道1キロを毎日歩いて通勤していた。)

余談になるが、歴史的にカナダにはウクライナからの移民が多い。これは、西部開拓民としてカナダ政府が誘致した移民の中に農業に長けたウクライナ人が多く含まれていたことや、ホロドモールのようにソ連弾圧といった歴史的文脈の中で祖国から逃れてきたウクライナ避難民が多くカナダに移民したからである。ウクライナ系カナダ人は政治的に活発なこともあり、カナダで多文化主義政策が導入された時に影響力を持った。また、現在のカナダ副首相クリスティア・フリーランド氏もウクライナ系の人物である。このような背景もあり、カナダはウクライナ問題に敏感だ。ウクライナ系カナダ人はカナダの国家発展に寄与した重要な民族だという認識がカナダ人にはある。そんなわけで、カナダ研究者だった私はカナダでウクライナのことをだいぶ勉強することになった。

話は戻るが、当時ソ連が「繁栄している」と思われていたことも驚きだった。
もちろん、その繁栄の背後には生産した穀物を搾取され餓死した何百万人のウクライナ人の犠牲があるのだが、その真実は隠蔽されている。そしてーここが重要なのだがー真実を知っている一部の人たちは、西側の人でさえも、多くはソ連の弾圧を恐れて黙り込むか、あるいはソ連のプロバガンダに力を貸すかによって自らの命を守っていた。

国民の知る権利などという概念は軽視されているどころか存在しない世界。誰かの搾取の上に成り立つ一部のエリート層の繁栄。広大な領土を持つのをいいことに、外国人には首都モスクワ以外から出ることを許さず、社会の実態は包み隠される
。報道や出版は無論検閲される。不都合な事実は隠蔽され、事実を知ったものは命の危険が脅かされる。資本家による労働搾取という資本主義の矛盾を克服し、真の平等主義を実現するという崇高な理念を盾に建国されたはずなのに、資本主義よりひどい搾取が行われるというダブルスタンダード。領土の隅々まで監視が行き渡り、政府を批判する者は当然排除される。自由もなく、権利もなく、あるのは平等な餓えと貧しさだけ。

この映画を観れば、その歴史の事実に改めて圧倒される。

そして、命の危険を顧みず大胆にも当局の目を逃れながらソ連内部に入り込んでいったジャーナリストのガレス・ジョーンズの勇気にもただただ感服するのみだ。彼は、その後30歳になろうかというまだ若いうちに満州を取材していた最中にソ連に殺されたそうだ。満州で現地ガイドをしていた中国人がソ連のスパイと通じていたらしい。

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近年、世界における民主主義体制の国の数は減少傾向にあり、反対に権威主義体制の国は増加傾向にある。また、民主主義国家においても、民主主義の度合いを示す民主主義指標は低下傾向であることが知られている。後者については、トランプ大統領に代表されるようなポピュリスト政治家の台頭のほか、日本では政府忖度による報道の自由度の低さや日本学術会議の任命問題などに起因する。また、さらに過去2年については、コロナ対策における各国のロックダウンによる行動制限で世界の民主主義の度合いは下がっている。

緊急事態下における強権発動の是非には難しさがある。素早く強いリーダーシップで危機を収束すべき場面は確かにあるからだ。しかし危機や世界情勢の不安定を理由に権力の集中が強まる傾向には要注意だ。また、かといって世界や社会の情勢を甘く見てもいけない。

第一次世界大戦や世界恐慌を経験したヨーロッパ諸国が、第二次世界大戦が起きる数年前まで、また再び世界大戦が起きるなんて本気で信じていなかったことはいい教訓だ。同時に、ドイツでナチスを支持していた一般の人々やソ連の革命精神に共感していた人々も自分達が支持した政府がまさかそこまでヤバいことをするとは思っていなかったはずだ。

国民主権の日本において、この国の主権者(=最高権力者)は私たち一人一人だ。私たちの権利や自由が少しずつ少しずつ削り取られ、気づいた時には手遅れとなってはならない。運よく平和な民主国家に生まれた私たちができることは、歴史を知り、歴史に学んで今の平和な民主主義社会を守り抜くことではないだろうか?

こんなこと、ほんの少し前までは我ながら意識高い系のちょっと耳障りな正論くらいに感じていた。

でもコロナ危機や、さらにはロシアによるウクライナ侵攻に直面した今、平和も安全も民主主義も全くもって当たり前じゃないと心から思うようになった。気持ちが暗くなるこんな時代だからこそ、私たちは知識を増やし教養を蓄え、真実を知ろうとする姿勢や社会や時代の流れを批判的に読み解こうという姿勢を持たなくてはならない。

映画を観て、そんな風な思いを強めた。










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