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はじめまして、出逢ってくれてありがとう

少し、自分の話をしたいと思います。

思えば私は、鈍臭くてトロくて、どこか抜けている子でした。
幼稚園の頃、みんなが舞台の上でわーっと中央に向かって駆け出して行っても、私はいつもワンテンポ遅れて飛び出して、母に恥をかかせるし、遠足へ行く時、トイレに行っていたらいつの間にか置いていかれる。小学校に上がっても、クラスのグループに入れず、唯一の親友はお互いはぐれ者同士の不良の女の子。私自身はいつもヘラヘラして地味で、でも一緒に悪いことばかりしていました。先生からも睨まれたり、今では考えられませんが、不良の子と一緒にいるだけで叩かれたりしました。

でも、それでも、その頃は、人生で一番自由で、楽しくて…キラキラと輝いていました。

東京都多摩市で出生。

1年後に都内へ引っ越す。幼少時代をほぼ団地で過ごした生粋の団地っ子。
周りも自分も一流サラリーマンの家庭で、小学校までをのほほんと過ごしてきました。周りから言えば箱入り娘らしい。
6歳年上の姉が大好きで、しょっちゅうローラースケートで後ろを追いかけながら遊んでいました。

小学校6年生の時、親が離婚。人生の転機が訪れます。
英語が堪能な母は当時ディズニーシーで通訳の仕事をしていました。その時に出会ったアメリカ人男性と再婚することに。その男性は、ディズニーランドとディズニーシーの建設をアートディレクターとして関わった、かなりすごい人でした。私はそのアメリカ人男性が私の継父になる前から大好きでした。背が高くて長髪で優しくて…。小さかったので状況がよく分かっておりませんでしたが、母とアメリカ人男性と、私の3人でご飯をよく食べ、相手は日本語が話せず、私は英語が話せないのに手や絵を使って子供ながらに一生懸命会話をしていました。

初めて母からアメリカ人男性と結婚すると言われた時、あんなにも大好きな人だったのに涙が溢れて、私は2階の部屋へ上がってわんわん泣きました。

中学校2年生の夏、渡米。東京からアメリカの南部にある州に引っ越し、人生初の田舎暮らしが始まります。
理由はもちろん親の再婚でした。アメリカ人男性がディズニーシーの契約期間を終え、アメリカに帰ってきたのです。それを追うように私達もアメリカへと向かいました。

渡米する前のある夜、リビングへ行くと母が泣いていました。当時姉は大学生だったのですが、中学生の私に対して、再婚することと、大好きな友達や日本から私を離してしまうことに迷いや罪悪感があったそうです。「アメリカに行くべきかどうか分からない…。」そう母は言いました。
私は、どうしたのかそんな母を見てすごく穏やかな気持ちになり、笑顔でこう言いました。
「お母さん、私を幸せにしたいなら、まずはお母さんが幸せにならなくちゃいけないんだよ。私はまだ子供だから、お母さんが幸せになることが私の幸せ。だから、幸せになって、お母さん。」
今思うと、ずいぶん生意気なことを言っているなと思うので、きっと漫画やアニメの主人公ならこんなことを言うだろう、と当時の私は思って言った言葉なのだと思います。
でも、それが母を勇気づけ、救い、決断させたそうです。

そんなこんなでアメリカに移ってからは試練の毎日でした。全く英語を話せない私は、英語に苦戦しつつ、毎日机に向かって勉強をしていました。現地の学校に放り込まれ、南部の田舎には当然日本人など1人もおらず、吐き気と緊張と孤独を抱えながら、なんとか1年で学業に支障がない程度まで英語をマスターしました。
山に囲まれ、霧が見える早朝の中、赤いパーカーを着てスクールバスが来るのを待っていたのですが、あの黄色いスクールバスが見えると、お腹がきゅっと緊張する感覚は今でも鮮明に思い出します。

しかし、半年くらい経ってさすがに身体や精神に負担をかけたのか、胃痛でベッドから起き上がれなくなりました。その時は人生初の鍼で治療をしたのですが、担当してくださった女性医師に「これをするとどうなるんですか?」と聞いたら、「素敵なボーイフレンドができるわよ。」と冗談っぽく言われたのを覚えています。

その後中、高、大、専門学校をアメリカで卒業。

大学生の頃は東アジアの研究をしており、副専攻は中国語でしたが、ある日自分の本当に目指したい道を考えるようになり、映画のディレクターになりたいという漠然とした夢を抱くようになりました。

そこから3年半で大学を首席で卒業し、大学から頂いた奨学金を使って2年ほどロサンゼルスのハリウッドにある専門学校へ通うことになりました。
私は非正規の学生として、お金だけ払って自由にクラスを取っていたのですが、私が通っていた専門学校は割と名の知れた名門校だったようで、世界中からクリエイターの卵が集まり、中には日本人もいました。映像制作、2Dデザイン、3Dデザインなど興味がある授業は何でも取りました。有名な会社で働いている先生達から高度レベルの教育を受け、日系のテレビ局でADとしてインターンシップをする毎日で、東の南部で田舎暮らしをしていた私はアメリカの都会の刺激と、外国人という概念がないリベラルなロサンゼルスに魅了され、毎日が楽しくて朝起きるとワクワクしていました。また、出逢う人達みんなが情熱と野心を抱いており、同じクリエイターとしてとても良い影響を受けました。私は周りの人たちのおかげで成長し、モチベーションや向上心を高く保つことができ、うつとは正反対のところにいました。

こうして、約10年もの時を経て、就職のためにスーツケース1つで日本へ帰国。第一志望だったテレビ局の仕事は残念ながら落ちまくって、ゲーム会社に入社。アメリカ生活の幕を閉じ、浦島太郎の生活が始まりました。

みんなはこの時に口を揃えて、何故日本に帰ってきたの?と言いますが、私としてはアメリカでの経験を日本で生かしたいという想いがありました。また、日本に長く居なかったため、日本を忘れかけていたことに不安がありました。初心に戻ってもう一度自分を成長させたいと考えたのです。

ですが日本へ帰国する直前、空港へ車で向かっている途中、当時お世話になっていた下宿先の家主さん(継父の元同僚で、その方もディズニーアーティストでした)で、私の第2の父親的な存在でもある方に、やっぱり日本へ戻るのは不安だ、これから先どうなるか分からない、と弱音を吐いたことがあります。その時、その方は私にすごく大切なことを教えてくれました。

「あなたは“戻る”んじゃないんだよ。前に“進む”んだ。今の日本は昔のあなたが住んでいたところと同じところかい?きっと違うはずだよ。あなたは常に新しい場所へ向かっていくんだよ。」

この言葉は今でも忘れません。

こうして仕事を始めるのですが、6年程前身体が重くてなかなか起き上がれなく、感情がまさに死んでいるように何も感じなくなってしまいました。会社へ行くことに対して恐怖感を抱き、実際行くことが困難になってしまったため、医師に相談したところ、うつ病と診断。そこの会社はそれから3年後に辞めるのですが、独身で身寄りもなく、お金に困っていた私は、きちんと療養することができず、また別のゲーム会社に転職することになりました。それでも最初は元気に楽しく働いていたのですが、そこの会社でも身体がしんどくなり、うつが悪化してしまいました。
私は何年経っても治らない、難治性のうつ病を患ってしまったのです。

そして今の私がいます。一年前に仕事を辞め、何でもない、特に取り柄もない私がいます。

それでも結婚することができ、今何とかやっています。
6年前よりは景色が色づいて見え、心も豊かになっています。それもこれも、周りの人達のサポートのおかげです。私は上司とはうまく付き合えず、うつになってしまいましたが、家族や友人、夫には恵まれました。愛猫、愛犬にも癒される毎日です。
今は、うつを良くしていつか子供を授かることが私の夢であり、希望です。

最後に、ここまで読んでくださってありがとうございました。
そして、あなたに出逢えて嬉しいです。
私の記事が少しでも、あなたの心を温め、明日を生きるための役に立てれば幸いです。

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