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いちじくと祖母

大人になってからすきになった食べ物が、いくつかある。
いちじくはそのひとつで、それもほんとうに最近、ここ2、3年ほどで急にすきになったもののひとつだ。

元来、くだものには目がなくて、食事の後にデザートとして、ちょっと疲れたときに糖分の補給で、のどが渇いてみずの代わりにと、四六時中なにかしらのくだもののお世話になっている。そのせいで毎日くだものを買うので、スーパーや八百屋さんの店先に並ぶくだものの種類で、季節の変化に気づくほどだ。

しかしいちじく。これだけはあまりこのんで食べてこなかった。
原因は、いちじくにまつわる記憶にある。

いちじくは、だいすきだった祖母の大好物だったのだ。とくに秋が旬のいちじくを好んだ祖母は、毎年9月頃になると「今年もいちじくの季節がきた」と、よくスーパーでよろこんでいたのを思い出す。
祖母はとくに、やわらかくよく熟れた、じくじくのいちじくを好んだ。半分にカットしただけのものに、かぶりつくようにして食べていたことをよく覚えている。

おさなかったわたしには、その祖母の姿といちじくのとりあわせがすこし、怖かったのだ。

まるく優美なフォルムに淡いみどりと薄紫のグラデーションカラーと、その見た目はやさしく静的なのに、中心に向かってひだがまるで歯か何かのようにならび、真ん中にひっそりと穴の空いた、どこか生々しく動的な中身。そしてそんないちじくに、汁をしたたらせながらむしゃぶりつく祖母。祖母がいちじくを食べる様子は、いつもなぜか見てはならないような気がし、しかしどうしても目が離せず直視していたことを覚えている。当然、祖母はわたしもいちじくが食べたいのだと思っただろう、おあがんなさい、とすすめてきたのだが、わたしはいらないとあとずさりをし、不思議な子だといわれたことも、よく覚えている。


祖母がなくなってからもう6年あまりが経ち、わたしもいい大人になった。そしてその間に、薄切りにしてカルパッチョやサラダにやわらかな甘みを足したり、ローストして肉料理に添えられてこくや深みになったり、ドライになってヨーグルトにいれられたりした、さまざまないちじくと出会った。むしゃぶりつく以外のさまざまないちじくを知り、気づいたらいちじくは、このんで食べるくだものになっていた。

最近は夏のいちじくがあるのね。6月頃からスーパーに並びはじめるすこし小ぶりないちじく。仕事終わりにひさしぶりに買ってきて、夕食後にたべようと半分にカットし、ふと、祖母を思い出した。


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