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思考を深めるのは、あくまで国語である。

祖国とは国語』『誰が国語力を殺すのか』に続き、国語シリーズ(後者は「聴き」)を読み進めていますが、【〜子供の頭がグンとよくなる!〜国語の力』】も、とても参考になりました。

🔴思考を深めるのは、あくまで国語である。 『祖国とは国語』👀『誰が国語力を殺すのか』👂に続き、国語シリーズ(後者は「聴き」)を読み進めていますが、【〜子供の頭がグンとよくなる!〜国語の力』👂も、とても参考になりました🙌 論理的に読み、論...

Posted by 久野 晋作 on Thursday, June 6, 2024

論理的に読み、論理的に書き、論理的に考え、論理的に伝える。

著者の出口さんは首尾一貫して論理性の重要性を説いています。
このことは、本当に大切なことだと感じます。

筋道を立てて物事を考え、(相手が理解し易いように)伝えること。

聞く相手の側にも、相応の語彙力・理解力が必要ですが、「意思を疎通させる」上で、欠くことの出来ない基本です。

意思疎通が図れなくなっている主たる要因は、まさに、人間社会で生きて行く中で一番大切な「この点」を疎かにしてきたことにあるように感じます。

「人間は考える葦」であり、その考えを相手に伝え、理解してもらうこと。その相手も、「理解すること(力)」が不可欠です。

もちろん、哲人・哲学者並みの、高度な能力が求められているわけではありません。

一概に否定するつもりはありませんが、カタカナ用語の氾濫し、右往左往している現代社会および学校現場において、【本当に大切なことは何だろう?】と考えた時に、
です。

名著です。この書籍との出会いはとても大きかったです。


叙情歌が消えてゆく学校…

PTAの役員や学校評議員として、市議会議員として、そして、現在は学校運営協議会委員という立場で学校に行く機会が多い私は、約20年間の推移を眺めてきました。

特に気になっていたのが、「叙情歌」と言うべき代表的な『日本の歌』が殆ど歌われなくなっていることです。

卒業式はとても顕著です。

生まれた年代もあるとは思うのですが、卒業式で代表的な歌であった『仰げば尊し』を使用している学校は、今や殆どないのではないでしょうか?

『仰げば尊し』の歌詞に難癖をつける方もいらっしゃいますが、【そうした考え方が横行した結果、現在の学校現場が、また教員の採用状況がどうなっているか?】を理解できていないように思います。


一方で、使用されているのは、カタカナ語が多く使用される曲です。

「歌は世に連れ、世は歌に連れ…」と言われるように、時代とともに卒業式で使用される曲が変わることは一定理解するところです。

ですが、現在、卒業式で使用される「歌」は、先人が代々紡いできた「日本人の豊な情緒を想起させる曲」とは、私には到底思えません。

そのような気持ちのカケラも心配りも感じないからです。

純朴な卒業生の涙が伝播し、卒業式の冒頭から貰い泣きをしてしまうくらい涙腺が弱くなった(情感溢れる)私ですが、率直に申し上げて、年々寂しさを募らせて式場を後にしています。

『巣立ちの歌』も全く歌われなくなりましたね…🥲
*もちろん、巣立って行く子供達には何の責任もありません。


英語は公用語ながら、主客が転倒して、「力を注ぎ過ぎること」には私は反対です。

英語教育が小学校に完全に入りました。

ですが、母国語の思考力が十分に育っていない、知識も不十分な子供達に「学問ではない英語」を教えることに(単純に)力点を置くことには私は賛同できません

外国の方と”コミュニケーション”が取れることは素晴らしいことです。
そのことは全く否定しません。

でも、冷静に考えてみましょう。

私たちが母国語が日本語ではない外国籍の方と会話する時、何を期待しますか?それを考えれば、答えは自ずと出ます。

そうです。

外国人に伝えるべきことは、「日本人が何を考えているのか?」であり、外国人は「英語の上手な日本人」と会話したいのではない

はずです。

だからこそ、

会話や思考の前提となる「中身(質)を高めること」を疎かにしてはいけない。その土台となる国語を疎かにすることは、どういうことに繋がるのか?

を理解すべきと私は思うのです。


激増する、「日本語の指導を要する児童・生徒」

この根源的な問題と合わせて、近年、【日本語の指導を要する児童・生徒】が激増(散々・集中)していることも大きな問題となっており、当事者である児童・生徒、そして関係者となる学校および児童・生徒への影響は少なくありません。

皆さんの子弟が通う足元の学校が、実態としてどのような運営をしているかを確認されることをお勧めします。

一義的には「保護者」の問題ではあるものの、本当に複雑な問題になっていると思われます。単なる労働者(実質的な単純労働者)として受け入れてきたツケが大きく膨らんだ結果と言えます。

下記は、工場の多い東海地区の中でも、とりわけこの問題と直面し、自治体として課題解決に向けて取組んでいる浜松市(政令指定都市)の資料です。



簡単な解決策はありません。

突き放したような物言いになりますが、簡単な解決策はありません。長年かけて「今」の状態を生み出しているため、問題は非常に複雑で深刻です。

当然のことです。

この問題は、人口政策、労働政策、そして言語政策の重要性を物語る典型的な事例と言えます。互いに不幸な現実を産み出しているとしたら、何にもなりません。

ですが、決して看過してはならぬ、何とかしなければならない重要な課題です。問題がここまで複雑化してしまった中で、付け焼き刃的な弥縫策(びぼうさく)をどれだけ打っても根本的な解決には至りません。

「誰が悪い」と今更言っても何も始まりません。

この問題を軽視し、その結果として事態をここまで悪化させたのは、みんなの責任です。

自分には関係のないこととして見なかった事にするか?
そうではなくて、何とかしようと争(あらが)うか。

私は、後者を選びます。
自分の立場で出来ることに取り組みます。

すべては子供たちのために。
すべては明日の日本のために。

先人たちが必死の想いで繋いで下さった襷(タスキ)を次代を担う子供達に責任を持って受け渡すことが、今を生きる私たちの責任

だと私は考えます。

5月23日に自宅の裏の田んぼ越しに手持ちのスマホ撮影した夕焼けです🌅

最後までご覧いただき誠にありがとうございます。 引き続き、ご愛顧いただければ幸いです。