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エゴは消失ではなく拡大させることで幸福獲得に貢献する〜自己への執着が軽減することに伴い自尊心等の保持が困難に感じられる場合の思考レベルでの対処法について〜


はじめに

少し前のことである。
とある人間関係において私が求めるレベルでの相互理解が到底困難なものに思えたので、私はその関わりに終止符を打とうとしていた。

彼は取り乱し『君はエゴイスティックだ』という言葉を私に向けて発した。
それは自分の欲求解消や個人的な計画が今後は続けられなくなる憂鬱さや恐怖からくる『彼』なりの解決策、もしくは単なる反応であったのだろう。
そういった事情の上で私を引き留めようという行為こそエゴイスティックであり、その時は『彼』のうち大部分が『エゴ』と呼ばれるものに溺れていたように見えた。

おそらく彼は『相手が自分の思いどおりにならない』=『相手がわがまま』=『それはエゴイスティック』という回路のもと、『君はエゴイスティックだ』という言葉を発するに至ったのだと思う。
『エゴ』という言葉は現代では広い層の人々が使う言葉であるが、それは必ずしも学術書や偉人による定義と常に同じではないのだと実感した。

そして私は同時に、自分だって『エゴ』が何であるのか、誰かを納得させられる具合に説明できるほど十分な理解が出来ていないことに気がついた。


エゴの再認識

日常会話の中で『エゴ』という言葉が使われる時、多くの場合は単なる『ワガママ』の言い換えであり、つまりはエゴが悪いものとして扱われているのである。
しかし、果たしてエゴは悪者であるから消されても同然だと考えるのは健康的だろうか? と違和感を覚えた。

というのもエゴはそもそも生命維持に必要なものであるし、味や色のある面白い人生を展開する際に必要不可欠である。
人の心を一瞬にして魅了する作品や物語のように、ある種の芸術の源泉は、エゴによる可愛らしい苦悶によるものだということは否めないであろう。

エゴとはなんだろうか。
私達のどの部分をエゴと呼べるのだろうか。

また私は個人的なレベルでの精神に対する学習を続けているせいか、エゴに対する冷静な認識と、それの健康的な意味を発見する必要性をかねてより感じてきていたのだ。

理由の一つは、長期的な安定した幸福感を確立するためには、学術的に以下のような概念が重要だと言われることにある。

  • 自尊心

  • 自己肯定感

  • 自己効力感

  • 自己受容

  • 自己愛

しかし、過去これらの概念を理解しようとした時に、私は思うように『自己』の部分に対する感覚が掴めなかったのだ。

私はここ数年の間に、段階的にエゴへの執着、つまり自分はこういう人間である(べきだ)という考えへの執着が無くなってきた。
それにより目の前の出来事や誰かの言動に一喜一憂しなくなったが、それはエゴを含めた自分という存在への認識を怠けているだけだったのではないかと、思うようになったのだ。

エゴ・自分を直視することを怠けたあまり、自分が何者なのか分からなくなり、最終的には自分を大切にするという言葉にピンとこなくなった。
これは改善したい。
では、健康的な方法でエゴを認識するにはどうすればよいのか。

そもそもエゴを悪いと語るシチュエーションの背景には、エゴに溺れてしまったり振り回されたりしやすい私達の癖がある。
つまりエゴをもとにして展開される思考に飲み込まれなければいいのである。
飲み込まれないためには一歩引いたところから眺めればいいのである。

また、幸福を端的に言えば安定した状況のことであると思う。(社会的に言われる安定ではない)
それをエゴについて考える時に適用させて考えた結果、最近『拡大』というキーワードにたどり着いた。


消失ではなく拡大

エゴというものを認識する際、必ずしもそれに100%浸る必要はない。

『あぁ、自分の中にエゴと呼ばれる部分があるんだ』
『それにはこういう働きがあって、こういう活動をしているのだ』
『私のエゴはこういうものを好むのだ』という様に、エゴを客観的に認識することができる。

自分が認識できる範囲を広げ、視点を遠くへ持っていき、客観視出来るようになる必要があるが、エゴを自分らしさの一部として健康的に認識するためには効果的かつ強力な手段だ。

そうした上で、眼の前に広がる世界の中に、エゴを見出すのだ。
自分の眼の前に広がる人、物、食事、景色などが、エゴの選択によって積み重ねられた結果なのだと再認識し、受け止めるのだ。
自分がこの場所にいる理由を、どこかの誰かに責任転換するのではなく、自分の中にあるエゴが機能した結果だと考え、自分の中のエゴを祝福するのだ。

それが楽しい場所であれば、エゴに感謝できる。
そうでなくても、『エゴがエゴらしく』機能した結果だと思うとなんとも可愛らしく思えてこないだろうか。

それはすなわち、今自分がいるこの場所は自分が選んだのだと認識すること。
自分の展開した人生に責任を持つこと。
自分は『生きてきていた』のだと実感すること。

自分の認識できる範囲をエゴと同じ大きさに留めておくのではない。
頭を垂れ自己陶酔とともにいつまでも同じ場所に留まるのではない。

見上げた所にある空間いっぱいに認識を拡散させ、自分がこの人生を展開してきたのだと感じ、エゴも含めた自分の軌跡を肯定するのだ。


あくまでも起点はこちらに

しかし、自分の視点や軸を失わないことは忘れたくない。
どこか別の視点にトリップし、その場所に溺れてしまうのではなく、あくまでこれは自分が展開している人生なのだと責任を持つことは重要であると思う。

責任を持つということは自由であるということだ。
決定権がこちらにあるということだ。

学校を卒業し社会の中で生産活動をするにつれて、責任と呼ばれるものを引き受ける機会は増えていくが、それは自分の人生を自分で決めていける機会の増加を意味し、同時に自由を獲得していくことでもある。

決定権のもたらす『いつでも私が決められる』という安心感は、長期的な安定した幸福感を確立するのに非常に重要である。
自分の人生は誰かからコントロールされているのではなく、自分で選んでいる、自分で選んできた、そしてこれからも自分で選べるのだという安定感や安心感だ。

人生や世界に対して、決定権はいつでも自分にあると感じ続けることは容易いことではない。
これは信念だ。
獲得し続けようと努力する決意だ。
だから責任を持つということは少し怖い。
しかし同時に自由になれる。

どんなに自分の人生を受容する心をもっていても、決定権や選択権が自分になくては幸福感には繋がらない。
例え世界に対して受動に徹する生き方を選んだとしても、その生き方選んだのは自分であり、他者から強要されたわけでは無いだろう。

『私は生きているのだ』という実感は漠然としすぎるあまり、浸り続けることが難しい。
しかし自分のエゴを抱擁し、それによって展開された人生を受容し、エゴを客観視出来ている自分を祝福することで、生きるということに責任と自由を見出せる。

自分がここで生きているということを能動的にとらえ続けていれば、手の中にある決定権を行使することができる。
自由でありながらも幸福でいるために、人生を眺める視点や決定権を自分の中心からずらさないことが重要だ。

おわりに

混沌に怯え苦悶するエゴを嫌悪し無視することもまた自由だ。
私達の思考は完全に自由だ。
身体の状態がどうあれ、私達の想像力は私達をどこへでも旅させてくれる。
好きな場所で人生を展開すればいい。

人生に対する視点の碇を、どこに下ろそうと自由だ。
私は、その碇を自分の中心に下ろしたいと思う。
エゴのあるこの場所に下ろし続けたいと思う。
豊富な色や味、匂い、質感を自分の世界に与えてくれるエゴに感謝したいと思う。

エゴを理解しようと学習する過程は、自分が何者で、何を求め、何を必要とし、どこに向かっているのかという自己理解へと導いてくれる。
自分の人生に対する責任感と決定権を取り戻し、自分で選択を繰り返すことで、自分が人生をコントロールしている実感が大きくなる。
それは生活レベルにおいても、精神レベルにおいても、安定の割合を大きくさせ、心理的には安心をもたらす。
『自分はこの人生を自分で選んで生きているのだ』と思えれば、それが終わる頃には、あぁ幸せだったと思えるのではないだろうか。

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