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批評家への序章:梅崎幸吉を論ずるための心構え(五)

論ずる以前の読者の心構え(著者だけでなく読者にも心構えが必要なnote)

 梅崎幸吉の上記の発言が大袈裟な話ではないことは、彼の著書を読まずとも理解できる。武術家が彼の人相を観察すれば、会話をしたり著書を読まずとも、彼の信念を理解できるものだ。人相が読めない人であっても、梅崎の文章を読めば、その言葉が本心から出ていることが明らかになるだろう。

 芸術と武術の類似点については、以下に既述の通りである。

 武術家がペンを取る行為は、ペンが武術以上に圧倒的な力を持つという認識に基づいている。この概念は『ペンは剣よりも強し』という言葉で象徴され、この考えはエドワード・ブルワー=リットンが1839年に発表した歴史劇以前から存在している。『ペンは国家よりも強し』という高次の概念を具現化した人物には、 #トーマス・ペイン #カール・マルクス #ウラジーミル・レーニン #ネルソン・マンデラ #レイチェル・カーソン などがおり、彼らは言論やペンの力で世界史に影響を与えた。彼らの功績について詳細な説明は不要であろう。

 一方で、言論のために命を落とした人物もいる。ジョルダーノ・ブルーノはその言論が異端とされ、1600年にローマで火刑に処された。中世ヨーロッパでは、言論が異端裁判の原因となり処刑された例が多数ある。1633年には天文学者の #ガリレオ・ガリレイ が異端審問(宗教裁判)で地動説を放棄する旨の異端誓絶文を読み上げ、処刑を免れた話は特に有名である。 #マハトマ・ガンディー (1948年暗殺)、 #マルティン・ルーサー・キング (1968年暗殺)、中華人民共和国や北朝鮮では、現在でも言論が死刑や強制収容所送りの原因となることがある。

トリックスター武術家の芸術批評手法

 武智倫太郎はトリックスターの武術家として芸術家の梅崎幸吉を論じている。

非伝統的視点からの芸術批評

 本論の筆者である #武智倫太郎 の芸術批評は、従来の枠組みを覆す #トリックスター 的手法と非伝統的視点を特徴としており、一般の批評家と異なる観点から新規かつ予測不可能な評価を提供している。 #武術家 #芸術批評 は、 #伝統的手法 では捉えられない新たな可能性と #非伝統的手法 の有効性を示唆している。然し、これは仮説に過ぎず、 #無師直感流哲学 の原則では、自ら立てた仮説は自らが論証あるいは『実証』する必要がある。

 この手法とは正反対の手法を採用する例が数学や科学、哲学分野に見られる。特に、自ら立てた予想を公にして他者に解かせる手法がそれである。この手法の著名な例には #ABC予想 が含まれる。ABC予想は1980年代に提唱されたもので、数論の深い問題に関わる非常に抽象的な予想である。

 また、科学や哲学の分野でも、自らの仮説を直接検証せずに残した有名な学者がいる。例えば、 #アルベルト・アインシュタイン は一般相対性理論を提唱したが、その完全な実証は彼自身によって行われたわけではない。哲学者の #カール・ポパー も、『科学的仮説は反証可能性を持つべきであり、それを通じてのみ科学的知識が進歩する』と主張したが、彼自身が特定の科学的実験を行ったわけではない。

 これらの例から、世の中には自らの言論の責任を他者に委ねる学者が少なくないことが明らかである。このような手法は、無責任とも言えるが、同時に学問の領域を広げ、新たな発見や理解を促す契機ともなっている。このようなミスディレクションやユーモラスな茶化しは、トリックスター独特の表現であり、予期せぬ発見への道を拓く可能性を秘めている。

哲学的実証と科学的実証の交錯

#哲学 における実証とは、科学的手法や論理的推論を用いて何らかを証明する過程を指す。然し、哲学が扱う問題の本質を考えると、その実証は科学的実証と異なる側面がある。哲学的実証は、論理的議論、概念分析、思弁的推論、哲学的思考実験などによって行われることが多い。これらの手法は、哲学的問題の性質、倫理的価値判断、意識の本質、存在論的状態など、直接的な観察や実験では捉えられない抽象的な概念や理論を検証するのに適している。

 然しながら、筆者が提唱する無師直感流哲学では、 #梅崎幸吉 論において『科学的実証』手法を併用する予定である。これは一般的な哲学の概念からの逸脱を意味する。この前提条件を理解することで、型破りな手法の意義をより明確に理解できるだろう。

 魂や霊といった『科学的実証』が困難な問題は一般に哲学や宗教領域に分類される。従って、これらの領域に科学的実証手法を導入する試みは、多くの哲学者や科学者から無謀な試みと見なされることがある。この領域を科学的に証明する試みは、 #パラサイコロジー #超心理学 )や #フリンジ ・サイエンス( #境界科学 )の分野で見られる。パラサイコロジーは、ESP(超感覚知覚)や心霊現象、テレパシー、予知、念動力など、従来の科学では説明が難しい現象を研究する学問領域である。この分野の研究者は、魂や霊、幽霊の存在を含む超自然的または #超常的現象 を科学的方法で調査し、証明しようと努力している。

 然し、パラサイコロジーの研究は科学界内でも議論の的であり、その方法論や結果の信頼性に対する批判も少なくない。多くの科学者は、パラサイコロジーの実験結果を再現性の欠如、科学的手法の不備、データ解釈の問題点などの理由で懐疑的に見ている。そのため、魂や霊、幽霊の存在を科学的に証明することは現在も困難であり、これらの現象は科学的な合意に至っていない。

 然し、科学の興味深い側面として、天文学や地球化学で科学的合意に至っている事象はほとんど存在しないという事実である。科学では再現性が重要視されるが、天文学ではビッグバンを再現できず、気象学では完全に同じ気象条件を再現することは不可能である。このことから、天文学や気象学を再現性のない似非科学と断言することは論理的に破綻しており、パラサイコロジーにのみ過度な再現性を求めるのは不当である。

 パラサイコロジーを非難する理由が証明の困難さにあるが、ワクチンの効果や副作用の証明も同様に困難である。困難であるからといって研究対象を除外するのは、科学者の姿勢として誤りである。

『証明が困難』であることと『証明が不可能』であることの間には大きな違いが存在する。証明が不可能であると主張する場合は、その不可能性を証明する必要がある。この点を見逃しているのが、パラサイコロジーを批判する科学者たちの一般的な特徴である。

 このような困難な問題に対して、終わりのない #不毛な議論 を続けることが現代哲学者たちの特徴である。(笑い一本!)

 一方、困難な問題について深く考えることなく、聖典に記されているという単純な理由でそれを盲目的に信じるのが、宗教や神学の特徴である。

 上記の例は、社会における権威の姿を鏡のように映し出している。 #アンデルセン童話 の『 #裸の王様 』は、一人の子供が大人たちの偽りと自己欺瞞のベールを剥がし、単純ながらも衝撃的な真実『王様は裸だ!』を叫ぶ場面を描いている。この瞬間、子供はトリックスターの役割を果たし、権威の無能ぶりを無邪気ながらも力強く指摘する。

 トリックスターの役割は、固定化された思考や既成概念に挑戦し、新たな視点や発想を促すことにある。『裸の王様』での子供の行動は、読者に対して、権威に盲目的に従うことの危険性と、自身の観察や判断を大切にすることの重要性を示唆している。この物語を通じて、アンデルセンは、社会的な権威や専門知識が必ずしも真実や正しさを保証するものではないことを教えている。

 筆者が学者や権威の無能ぶりを指摘する行為もまた、『裸の王様』の子供が果たした役割と同じ精神から発している。科学、哲学、宗教といった領域における権威たちが見落としている、または無視している真実を明らかにし、読者に対して既成概念に疑問を投げかけ、自ら考える機会を提供する。この工程は、読者の発想を豊かにし、より批判的な思考へと導く。このようにトリックスターは、社会の表面的な秩序や権威に挑戦し、隠された真実や知識の限界を暴くことで、私たち自身の理解と世界観を拡張する。『裸の王様』の物語が持つ普遍的な魅力は、この深い洞察と人間の心理を見抜く力に他ならない。

トリックスターの挑戦的姿勢と芸術批評

 上述のような挑発的かつ挑戦的な姿勢はトリックスターにとって重要であり、権威や既成概念に挑むことが芸術批評で新しい議論を生む。後の稿では梅崎幸吉論を通じて、芸術批評家や哲学者をからかう手法も取り入れる。この手法がトリックスターの核心を理解していない読者に誤解されがちなので、意図をあらかじめ明らかにする。

 梅崎幸吉論の観点から批評家や哲学者を挑発するのは、梅崎の本質を明らかにするためである。この批評様式は梅崎批評を避けているのではなく、梅崎の特異性を通して、権威主義に挑戦し、読者の理解を深める試みである。

 読者の大半は以下の『無師直感流哲学占い (1)』を、単なる占いだと思うかもしれない。

 然し、筆者がこの占いを作成した意図は、全ての型にはまった哲学者の欠点と無能さを風刺するためのコンテンツであると同時に、科学的実験環境の構築でもある。この占いは1時間程度で作成したものであり、手作りのリトマス試験紙レベルのツールに過ぎない。ところが、『無師直感流哲学占い (1)~(100)』まで様々な角度から作成し、ランダムに抽出した3000名の哲学好きにテストを実施し、メタ解析すれば、立派な科学的手法となり得る。

 この手法は #風刺 と同じ本質を持ち、洗練された風刺はトリックスターの性質と一致する。風刺は社会、政治、文化の既成概念や権威に挑戦し、ユーモアや皮肉を交えて批判する。これにより、読者や視聴者に深い洞察や批判的なメッセージを伝えることで、読者の理解や批判的な思考を深める。

 風刺の定義をここで説明した理由は、現代日本では洗練された風刺が少なく、風刺が愚痴や嫌味、皮肉、誇張、双義性、比喩や隠喩と混同されがちだからである。洗練された風刺は、トリックスターの表現手法の真髄と言える。

ユーモアと遊び心による芸術批評

 ユーモアと遊び心はトリックスターの手法を特徴づけ、芸術批評においても反映される。風刺的なコメントや悪ふざけによる批評は、芸術作品への新しいアクセス法を提供する。筆者が真面目な文脈で論理的な整合性を欠く主張を恣意的に行う、或いは、文章の様式が急に変わる場合、これらは筆者がピエロの役割を演じていると解釈することで理解し易くなるだろう。ピエロは滑稽な衣装と化粧を施し、観衆を楽しませる目的の演芸者である。ピエロによる演技は、喜劇的な要素を豊富に含み、日常生活の逆境や矛盾を誇張して笑いを誘う。これらの人物は、社会的な規範や期待を巧みに利用し逆手に取ることで、観衆に自己反省の機会を提供し、世界を異なる観点から観察する機会をもたらす。

 対照的に、トリックスターは世界各地の神話や民話に登場する神秘的な存在で、しばしば巧妙な策略や欺瞞を用いて他者を欺く。トリックスターは創造と破壊、善と悪、秩序と混沌といった対立する要素間で揺れ動き、物語に予測不能な展開をもたらす。これらの存在は、既存の規範を破壊し、限界を超越することで、変容や成長の機会を提供し、物語に深みと意味を加える。

 ピエロとトリックスターは、既成の秩序への挑戦と新たな視点の提示において共通点を持つ。然し、ピエロが主に娯楽を目的とするのに対し、トリックスターはより広範な文脈で深遠な意味を持つ。これらのキャラクターは、社会の規範に対する独自の手法を持ち、新たな視点を提供する役割を果たしている。

技術と形式の超越

 武術の実践から得られる深い理解を芸術批評に応用することで、作品の技術的側面や表現の独創性に対する洞察を提供する。武術家特有の視点は、批評の幅を広げる。この手法は、『創造的人間関係』を理想として掲げ、あらゆる素材や表現方法を用いる芸術家の梅崎幸吉を理解する上で極めて重要な要素となる。

相互作用的な手法による芸術批評

 武術家による芸術批評の手法は、相互作用的な手法にも特徴がある。これは、芸術作品と批評家との間にダイナミックな関係を築くことを目指し、批評を単なる評価を超えた作品との対話として捉える。作品との対話を通じて、作品内に潜む多層的な解釈や新たな意味の発見を促し、芸術作品が内包する可能性を最大限に引き出すことを試みる。

 この過程においては、倫理的な問題提起が重要な役割を担う。筆者の批評様式は、社会的な規範や倫理に対する疑念を投げかけ、芸術作品が提起する倫理的な問題や社会的影響に焦点を合わせる。この手法により、美的な側面のみならず、梅崎幸吉が持つ深遠な社会的及び倫理的な意義に注目し、深層的な考察を促す。

 既存の芸術及びその批評の枠組みに、新たな視点と深みをもたらすこれらの手法は、芸術作品への理解を豊かにし、予測不可能な展開を通じて新たな価値を生み出す。伝統的な批評手法に対する疑問を提起し、作品と批評の関係を再定義することにより、芸術批評の新たな地平を開拓する。この独自の批評様式は、読者や観客にも、作品を観る新たな視点を提供し、芸術に対する理解と感受性を深める機会を提供する。

 以上の諸点は、トリックスターの武術家たる武智倫太郎が、芸術家の梅崎幸吉を論じる際に独自に展開する概念体系であり、この姿勢の理解は、梅崎幸吉論の基礎を成す。従って、この理解を深めることが、本論の把握において重要な鍵となる。

専門用語:(笑い一本!)とは、梅崎幸吉が笑いの壺にハマっているであろうと推測される記述である。

武智倫太郎

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