MENA(中東・北アフリカ)専門家によるイラン解説 X
私は通常の書籍を執筆する際には、編集者の意見や読者の反応を無視して、自分の書きたいことを書いています。多くの執筆者が編集者の意見を絶対と誤解しているかも知れませんが、私にとって彼らの意見は、それほど重要ではありません。編集者が執拗に原稿の修正を求めてくる場合は、『だったら、自分の名前で書いたらどうなの?』と提案してみるのも一つの方法です。
編集者の意見を無視する前提だと、noteは読者からのコメントに応じて執筆できる点が非常に魅力的です。私は日本国内よりも海外での生活が長いため、一般的な日本語の情報とは異なる視点を持っています。そのため、日本語の読者からのコメントは、執筆内容の過不足を把握するのに非常に役立ち感謝しています。
今回はRyéさんからいただいたコメントをもとに、記事を書いてみたいと思います。
キュロス二世がキュロス大王と呼ばれる理由
日本では #キュロス二世 を『 #キュロス大王 』と呼ぶことは少ないかも知れませんが、国外では一般的にキュロス大王として知られています。キュロス二世は、先代のキュロス一世とは別格です。キュロス一世が地方豪族に過ぎなかったのに対し、キュロス二世は #アケメネス朝 ペルシャの創設者として、 #ペルシャ帝国 を顕著に拡大しました。彼の治世には、アナトリアのリディア、中央アジアの部族、新 #バビロニア の征服などの軍事遠征が含まれています。
キュロス大王はその寛容な統治方針で知られ、征服した地域の文化や宗教を尊重しました。特に新バビロニアを征服した後、ユダヤ人に #エルサレム への帰還と神殿の再建を許可したことは、異なる文化間の平和を促進し、帝国内の安定に寄与しました。
さらに、キュロス二世は #旧約聖書 を含む複数の文化の史料で敬意を持って描かれています。特に旧約聖書では、神に選ばれた支配者として記述されており、これが彼の伝説を形成するのに一役買っています。
彼の統治は公正で効果的であり、リーダーシップのスタイルとカリスマ性で広く尊敬され、ペルシャ帝国の基礎を築いたと広く認識されています。
これらの理由から、キュロス二世は『キュロス大王』として歴史に名を刻みました。彼の遺産は後世のペルシャ王たちによって引き継がれ、古代から現代に至るまで尊敬の対象となっています。
イラン対イラクの関係の歴史
紀元前2200年から紀元前549年にかけて、現在の #イラク に位置する #メソポタミア 文明と、イラン地域の古代ペルシャ文明(特にエラム、後にはメディアやアケメネス朝ペルシャ)の関係は複雑でした。協力的な時代もあれば競合的な時代もあり、権力の変遷、政治的および軍事的紛争、文化的交流が頻繁にありました。
国家間で協力関係と敵対関係が逆転する現象は多くの人にとって意外かも知れません。ところが、例えば、日米関係を考えると、この逆転現象が理解し易くなるでしょう。大東亜戦争時代には、日本は英語を『 #鬼畜米英 』の言葉として排斥し、英語禁止令を出しました。野球用語で『ピッチャー』『キャッチャー』を避け、『投手』『捕手』などの日本語を使用するのも、この #英語禁止令 の影響です。しかし現在では、多くの日本人が英語を学びたいと願っており、かつての敵言語が今や求められる言語となっています。これは、かつての宿敵と友好関係を築くことができる日本の特異な国民性を示していると言えるでしょう。
日本国外では千年以上にわたる #民族紛争 が一般的であり、日本のように『鬼畜米英』政策から敗戦直後に米英大好き政策への急激な転換は、世界的に見ても珍しい事態です。
バルカン半島:バルカン半島では、異なる民族と宗教が絡み合う複雑な歴史を持ちます。オスマン帝国の支配からの独立、第一次世界大戦後の国境の再編、ユーゴスラビアの解体と内戦など、歴史を通じて多くの紛争が発生しています。
中央アジア:中央アジアの多くの国々では、民族的な緊張が存在し、特にフェルガナ盆地などの地域で民族間の衝突が見られます。これらの緊張はしばしば旧ソビエト連邦時代の人口移動に起因しています。
イベリア半島(スペインとポルトガル):スペインにおいては、バスク地方やカタルーニャ地方での独立運動があり、これらの地域での民族的、文化的なアイデンティティは非常に強いです。これらの運動は長い歴史を持ち、時に暴力的な衝突に発展しています。
イギリスと言う国は無いので、UKもしくはBG(特にスコットランドと北アイルランド):北アイルランドでは、カトリックとプロテスタント間の宗教的・民族的対立がトラブルズとして知られる暴力的な衝突に発展しました。また、スコットランドでは独立を巡る議論が長年にわたって続いています。
イランとイラク地帯の良好な関係の時期
文化的交流:メソポタミア文明とエラム文明間では商業と文化の交流が頻繁に行われていました。これは、技術、宗教、芸術の面で互いに影響を与え合う結果となりました。特にエラムの首都スサは、メソポタミアの文化的影響を強く受けた都市の一つであり、文書や法的な文書が共有されることもありました。
イランとイラク地帯の対立関係の時期
紀元前2000年頃:メソポタミアの都市国家とエラムとの間で領土を巡る争いが頻発しました。これらの衝突は軍事的なキャンペーンとして使われることが多かったです。軍事的なキャンペーンとは、例えば、アメリカが真珠湾攻撃を『リメンバー・パールハーバー』、全米同時多発テロを『リメンバー・9.11』と繰り返すのと同じことです。
紀元前1760年頃:ハンムラビ王がバビロンを統治していた時期、エラムとの間に緊張が高まります。ハンムラビはメソポタミア全域を統一しようと努め、これにより周辺地域との競合が起こりました。
紀元前1150年頃:エラムはバビロンを一時的に支配下に置くことに成功しました。この時代のエラム王シュトルク=ナフンテは、バビロン神マルドゥクの像をエラムに移し、これが後の報復を引き起こす一因となりました。
アケメネス朝ペルシャの台頭
紀元前550年頃:キュロス2世(The 大王)がペルシャの力を統合し、メディア帝国を倒して新たな帝国を建設。キュロスの野望はペルシャの影響力をメソポタミアにまで拡大することでした。
紀元前539年:キュロス大王が新バビロニアを滅ぼす。この征服は比較的平和的に行われ、キュロスはバビロンの宗教的および社会的慣習を尊重し、ユダヤ人のバビロン捕囚の終結を許可するなど、異なる文化との融和を図りました。
この時代の関係は、現代の国際関係における協力と競争のダイナミクスに似ています。経済的、文化的な利益が協力を促す一方で、地政学的な野心や外交政策の違いが対立を生じさせています。前538年、キュロス大王が新バビロニア王国を滅ぼしたことにより、イランの #メソポタミア文明 に匹敵する #古代ペルシャ文明 が新たな段階に入りました。この二つの文明間では、時には良好な関係を保ち、時には敵対的な関係になるなど、様々な時代を繰り返しています。
紀元前539年のバビロンの征服:キュロス大王がバビロンを平和的に征服。この征服によりペルシャ帝国はメソポタミア地域に拡大しました。キュロスの治世の下で、宗教的及び文化的な寛容政策が取られ、征服された地域の民族や文化に敬意を払う姿勢が見られました。
紀元前482年のザッカリアの反乱:ザッカリアの反乱はバビロンで発生し、これはアケメネス朝ペルシャと新バビロニアの間の緊張関係の一例です。この反乱はダレイオス1世によって鎮圧され、ペルシャの統治権が再確立されました。
紀元前331年のガウガメラの戦い:アレクサンドロス大王の軍がダレイオス3世のペルシャ軍を打ち破った戦いです。この戦いによってペルシャ帝国の支配は終わり、 #ギリシャ文化 がメソポタミアにもたらされることとなりました。
これらの出来事は、古代イラン(ペルシャ)とイラク(メソポタミア)地域の文明間の相互作用とその複雑な関係性を示しています。時代によっては協力関係にあったものの、頻繁な競争や衝突が発生し、それぞれの文明の発展に大きな影響を与えてきました。
文明が繁栄しても紛争が無くならない理由
前述の通り、紛争は文明の進化に一定の役割を持っています。逆説的に言えば、戦争や紛争で敗北した国は、文明を継承することなく滅びることが多いです。これは、文明の進化が実際には武力の進化を意味するからです。具体的な例としては、石器時代の文明は青銅器時代の文明に取って代わられ、その後、青銅器時代の文明は鉄器時代の文明によって滅ぼされました。つまり、文明の進化は兵器や武力、情報通信能力、計算力、科学技術力の進化と密接に関連しています。
アメリカの対中政策を例にすると、その基本戦略が明確になります。アメリカは、中国の経済や科学技術、軍事力がアメリカに追いつく前に、中国に圧力を掛ける戦略を採っています。仮想敵国を設定し、その敵国に負けないような軍備を整えたり、軍事同盟強化することは、アメリカに限らず、ブータンを除く世界中で一般的な行為です。
イランとイラクの環境破壊問題
イランとイラクはもともと豊かな自然と十分な淡水に恵まれており、これが古代文明の発展を支えました。しかし、文明の発展が進むにつれて、それは同時に環境破壊とも等しいと言えます。以下に、この地域の環境破壊の歴史を概説します。
古代文明黎明期の環境
イランとイラクの地域、特にメソポタミアは『肥沃な三日月地帯』として知られ、非常に肥沃な地域でした。この地域は古代に豊かな河川と湿地帯に恵まれていました。
古代文明と環境
メソポタミア文明:チグリス川とユーフラテス川の河川システムに依存したメソポタミア文明は、農業のための灌漑システムの導入によって地域の環境に大きな変化をもたらしました。灌漑による土地の塩害は、土地の荒廃を引き起こす一因となりました。
ヒッタイト文明:現在のトルコに位置する #ヒッタイト文明 は、山がちな地形の中で発展しました。この地域での森林伐採は、農地や都市建設のためのスペースを確保するために行われました。 #鉄器文明 としても知られるヒッタイト文明では、鉄製品の製造に必要な大量の木炭が森林の破壊を加速させました。この過程は、 #宮崎駿 のアニメ『 #もののけ姫 』に部分的に反映されています。
近現代の環境破壊
石油採掘:20世紀に入ると、イランとイラクの石油産業が急速に発展し、採掘活動とそれに伴う工業化が環境に大きな影響を与えました。
戦争と環境:イラン・イラク戦争(1980年~1988年)は、この地域の環境に甚大な被害を与えました。大量の化学物質の使用や石油施設の破壊が、土地と水資源の汚染を引き起こしました。
水資源の問題:最近では、ダム建設や過剰な水利用により、チグリス川とユーフラテス川の水量が減少しています。これが生態系への影響や地域間の水紛争の原因となっています。
人々は中東地域に何を求めているのか? また、中東に平和が来る日はあるのか?
近年の中東紛争の主な原因はイスラエルの建国に起因しています。これに加え、英米による経済的利益を追求した内政干渉や軍事介入、戦争も含まれます。イスラエルに起因する中東戦争については別の記事で詳述していますので、今回は英米による経済侵略を目的とした戦争に焦点を当てます。
主な紛争一覧
イランクーデター(1953年):アメリカとイギリスの情報機関が主導し、民主的に選ばれたモハンマド・モサデク首相を打倒し、シャーの権力を強化しました。
レバノン危機(1958年):アメリカはレバノンの要請に応じて海兵隊を派遣し、国内の政治的安定を支援しました。これは冷戦中の共産主義の拡大を防ぐためでもありました。
イラン・イラク戦争(1980~1988年):アメリカは戦争後半にイラクに軍事支援を提供しましたが、イランとイラク双方との関係を保持していました。
湾岸戦争(1990~1991年):イラクによるクウェート侵攻に対し、アメリカは国際連合の一員として多国籍軍を率いてイラクに介入しました。
アフガニスタン戦争(2001~2021年):2001年9月11日のテロ攻撃を受けて、アメリカはアルカイダとそのホスト国であるタリバン政権を打倒するためアフガニスタンに侵攻しました。
イラク戦争(2003~2011年):アメリカは大量破壊兵器の存在を理由にイラクに侵攻し、サダム・フセイン政権を打倒しました。
リビア介入(2011年):アメリカはNATO軍の一員として、リビア内戦中の反カダフィ勢力を支援するために軍事介入しました。
シリア内戦(2014年~現在):イスラム国(ISIL)との戦いの一環として、アメリカはシリアとイラクで空爆を行い、後にシリア民主軍(SDF)などの地上勢力を支援しています。
終末思想と平和の見通し
戦争が終わる日については、 #ユダヤ教 、 #キリスト教 、 #イスラム教 の終末思想が影響している限り、恒久的な平和は望むべくもないかもしれません。これらの宗教における『最後の大戦』の概念は、地域の政治的な緊張に継続的に影響を与えています。以下、それぞれの宗教の終末思想の特徴について説明します。
キリスト教の終末思想
『 #ハルマゲドン 』とは、新約聖書の『ヨハネの黙示録』に登場する用語で、世界の終わりの時に起こる最終的な大戦、すなわち神と悪の勢力との間の最後の戦いを指します。ハルマゲドンは具体的な地名ではなく、しばしば象徴的または比喩的な意味合いで使われます。この戦いは善が悪を打ち負かす決定的な瞬間とされ、キリスト教の終末論の中核を成します。
ハルマゲドンの背景
『ヨハネの黙示録』16章によると、ハルマゲドンは『ハルマゲドン』という名の場所で世界の王たちが集結することによって起こります。伝統的にはイスラエルのメギドという場所が指されることが多いです。
ハルマゲドンの後に起こること
ハルマゲドンの戦いの後、『ヨハネの黙示録』に記述されている以下の重要な出来事が起こります。
キリストの千年王国:キリストが地上に戻り、千年間の平和な王国を築きます。これは『 #千年王国 』と呼ばれ、キリストと共に復活した聖徒たちが治める時代です。この期間、サタンは縛られ、地上は平和と正義に満ちます。一部のキリスト原理主義者の間では、この千年王国を実現するために自ら全面戦争を起こそうとする考えも根強く存在します。
最後の審判:千年王国の終わりに、サタンが一時的に解放され、神に対する最後の反乱を試みますが、失敗に終わります。その後、死者が復活し、神の前で最後の審判が行われます。
新しい天と新しい地:最後の審判の後、新しい天と新しい地が創造され、『新エルサレム』と呼ばれる神の都が天から地上に降りてきます。ここでは痛みや死がなく、神と人が共に永遠に住むとされています。
これらの出来事は、キリスト教の終末論において、神が最終的に全ての悪を打ち克ち、完全な善と正義の時代を創り出すという教義を表しています。ハルマゲドンとその後の出来事は、信者にとっては希望と恐れの源であり、神の正義と慈悲が最終的に実現するという信念に基づいています。
ユダヤ教の終末論
ユダヤ教においては、メシアの来臨と世界の終わりに起こる出来事に関する予言が聖書(特に旧約聖書の預言書)に記述されています。ユダヤ教では『ゴーグとマゴーグの戦い』という概念がありますが、これは全世界の国々がイスラエルを攻撃するが、最終的に神の介入によって救われるというものです。この戦いは時に終末の大戦として解釈されることがあり、キリスト教のハルマゲドンと似た形で捉えることができます。しかし、ユダヤ教の教えではメシアが地上に平和をもたらすことが中心であり、ハルマゲドンのような特定の終末の戦いに焦点を当てることは少ないです。
イスラム教の終末論
イスラム教では、世界の終わりと最終審判についての教えがクルアーンおよびハディース(預言者ムハンマドの言行録)に詳細に記されています。イスラム教の終末論では、大いなる審判の日(ヤウム・アル・キヤーマ)が訪れる前に、偽メシア(ダッジャール)の出現、イエス(イーサ)の再臨、マフディ(正しき導き手)の出現などの出来事が予言されています。また、最終的に善が悪を打ち負かすとされていますが、これはキリスト教のハルマゲドンと共通するテーマです。しかし、具体的な『ハルマゲドン』という言葉は使われておらず、戦いや審判の具体的な描写も異なります。
このように、中東地域は歴史的、宗教的、地政学的な要因が複雑に絡み合っており、平和への道は容易ではありません。
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