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いつか見た風景 31

「奇々怪々夢食家倶楽部」


 別れましょうと妻に突然切り出された時はショックだった。どこかの劇場で芝居を観た後に二人で正面玄関に向かう階段を降りている途中だった。もう何十年も前の事だけどこうして時々思い出すんだ。私の心臓が大きな音を立て始め、別れなくちゃならない心当たりを探していると、ちょっと待っててと言って妻はトイレに消えて行った。外は雨でタクシーを待つ長い行列が出来ていたよ。間もなくして戻った妻が今度はごめんなさいって言ったんだ。何でもないからさっきの話しは忘れてって。だから私もトイレに行き、大きくなり過ぎた心臓の鼓動と思い当たる節の2つ3つを小便と一緒に便器の中に勢いよく流してやったんだ。

                 スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス


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 統計的に言って私のような老人はちっとも珍しくないそうなんだ。つまり何でも自覚しているよって鷹を括っているタイプだよ。それを裏づけるように何でも分かっているつもりになっていて、何が起こってもまあ運命だからしょうがないなって直ぐに思っちゃうタイプだよ。諦めは素早く、後悔は後でゆっくり。好奇心はそこそこ旺盛だけど目移りの方が優っているから何事にも大した成果は見込めない。それでも滑稽な理屈をつけては自己防衛に余念がない。

「エピソード記憶」って呼ばれてるらしいんだ。その筋の専門家たちにね。高度な判断ができるようにって、どうやら脳のあちこちに散らばって落ちてる色々な記憶情報の中から必要なモノをピックアップしてストーリー化する能力みたいなんだ。「冷蔵庫に確か水ようかんが一つ残ってたけど今のうちに早く食べとかないと誰かに先を越されるな…」って感じの高度な判断だよ。人間や犬猫、猿のような哺乳類にはその能力が備わっているってのはまあ分かるけど、カラスなんかの一部の鳥類にもどうやらソレがあるらしいんだな。

 そう言えば、公園で子供たちが楽しそうに滑り台で遊んでいる姿をじっと観察していたカラスが、子供たちが帰った後で子供たちと同じように滑り台をちゃんと滑って遊んでたって話を随分と前に聞いたことがあるよ。それってソレのことなんだろ? その時のカラスは滑り台で遊ぶ前にちゃんと周りをキョロキョロと確認していたらしいんだけど、確認しながらきっと独自のエピソード記憶を構築していたんだな。誰かにこの個人的な密かな挑戦を邪魔されたくなかったのか、或いは人間なんかに自分たちの能力をそう簡単に悟られたくなかったのかも知れないから、きっと過去の似たような記憶から導き出された高度な判断が働いていたんだよ。

そうそう、もしかしたら奴にとってはこれが初めての滑り台で、上手く滑れない事を仲間のカラスに笑われたくなくて少し慎重になっていた可能性もあるな。過去の似たような状況を思い出して、やっぱり体の重心は後ろにおいた方が安全だろうとか、足を前に放り出していきなりお尻で滑るのは無防備過ぎやしないかとかさ。まあそれだけ賢いんだったら「ボール遊び禁止」のように最近やたらと多い禁止事項の立ち看板の中に自分たちカラスに対する何か記載があったりしないかって、その確認に時間がかかっていたのかも知れないぞ。いずれにしても高度な学習能力を高度なエピソード記憶による判断によって結実させる見事なプロセスを垣間見せたその瞬間に、私も是非立ち会いたかったものだよ。


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  今日は昼に何を食べたっけかな。そうそうアレだなアレ。あれ? アレって何だっけ。何だ昼メシのメニューも思い出せないないのか。ちょっと待てよ、そもそも昼メシ食べたっけかな? 食べてないな。食べてないならちゃんと食べないとダメなんじゃないか。ちゃんと食べないと体に良くないからね。冷蔵庫でも覗いて見るか。何かあるだろうからね。何だよ何もないじゃないか。昼メシにちょうど良い奴が。何で何もないんだよ。おかしいじゃないか。誰かがきっと忘れたんだな。全くしょうがないな。最近皆んな忙しそうにしてるから、私の昼メシなんかにかまっているヒマがないのかな。忘れないで欲しいな。大事な昼メシなんだから。そもそも誰が私の昼メシを用意する係なんだ? ヘルパーさんかな。それとも私の息子を名乗るあの怪しい男かな。どっちでもいいけどちゃんと忘れないで用意しないとダメなんじゃないかな。今度会ったらちょっと文句を言っておかないとな。いや文句はダメだよ、注意だな。文句なんか言われたら誰だって嫌になっちゃうからさ。かえって逆効果で夕飯のクオリティに影響するかもしれないからさ。注意もほどほどにしておかないとな。最近パワハラとか問題になったりしてるからね。そういう風に捉えられちゃっても困るからさ。そうそう、だからそう言うのはきっと提言だな。皆さんには一つ提言というカタチで訴えてみようかな。明るく平和な未来への提言、住み良い社会と環境への提言、高度で複雑な情報化新時代を生き抜くための3つの提言、環境にも私にも優しい、それでいて高度な栄養価と絶妙な味と食感を備えた昼メシのための4つの提言。そうだよそうだ、そう言う方向でちょっと頑張ってみるか。それで4つの提言の4つは何にするかな。一つ一つちゃんと吟味して精査して考えないとな。何しろ私の大事な昼メシ問題だから。あれ、夕飯の方は大丈夫なのかな? 


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 奇々怪界なお味だったな、今日の夕飯は。パクチーの存在は明らかだったけど他の食材が謎といえば謎だよ。あの肉は一体何の肉だったんだ? 甲殻類の食感にも似たあの肉の正体に私はとことん取り憑かれてしまっていたんだ。まさか大豆ミートとかじゃないだろうね。私はビーガンじゃないからね。こよなく肉料理を愛するただの老人だからさ。スパイスを効かせた特別な料理だって言ってたけど、彼女は誰なんだ? ヘルパーさんにあんな感じの人はいなかった気がするけどな。そうか私の息子を名乗るあの怪しい男の関係だな。奥さんか? 奥さんがいたのか? まさか愛人ってことはないだろうけど、妹かな? 妹ってことは私の娘ってことになるじゃないか。私に娘はいないはずだけど、いるの? 私の娘を名乗る怪しい娘ってのが。まあいいか。そんな事より、あの絶妙な味の肉の正体を探る方が先だな。明日にでも聞いてみるか、私が所属している美食家倶楽部のメンバーに。大体いつも昼寝と昼寝の間の昼寝のちょっとした隙間に現れたりするからさ。





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