見出し画像

いつか見た風景 83

「近視眼的な日常の変革」


 一匹のハエが久しぶりにパーティーを襲撃しようと思いついた。しばらくご無沙汰だったご馳走がテーブルには溢れているはすだから。だけどこれまでの経験から反射神経の鋭い若い人間たちが集まるパーティーは危険がいっぱい潜んでいる事は知っていた。慎重に会場を選ぶ事にした結果、彼は私の元にやって来てこう言った。「取り引きしないかい? お互い損はないと思うんだけど…」

                スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス


「好物にありつくのは意外と大変なんだね…」


 ブルーベリージャムが何とも言えないアクセントになっている大好きなチーズケーキを食べようとしていた時だった。FLY THE WONDER と名乗る一匹のハエが飛んで来て、私に秘密の取り引きを持ちかけて来たんだよ。取り引きの内容はいたってシンプルでさ、週末にショートステイでお邪魔する老人施設の誕生日パーティに安全に潜り込ませてくれたら、一週間シークレットサービス役としてあらゆる危険から私を守ってくれるんだって。それから自分の事は気楽にワンダーって呼んでくれってさ。何だかこれから私とは長い付き合いになりそうな気がするからって言うんだよ。

 我々人間が1秒間に60コマで世界を認識しているのに対して、彼らはなんと250コマで周囲を感知しているんだって。それだけ微細に高感度で。飛行速度はそれほど速くはないけれど、全身を覆うセンサーのような織毛で空気の流れを読み、常に相手がどう攻撃して来るか瞬時に予測して回避する能力も標準装備しているからねってワンダーは言った。何しろ100分の1秒で進路方向を変える事くらい朝飯前だからって。それにさ、犬よりずっと臭覚は鋭いからって、得意げにつけ加えて来たよ。

「前足をこうやって頻繁に擦り合わせているのは何のためか知ってるかい?」
「それはさ、やっぱり食事の前の手洗いって感じじゃないのかな」
「勿論それも間違いじゃないさ、マナー的な意味でもね」
「そうだろう、マナーは大事だからね」
「だけど実際はさ、それ以上に大事な事がオレたちにはあるんだよ」
「何よ?」
「つまり、オレたちの前足には特殊なセンサーが内蔵されていてさ…」
「センサー?」
「触れるだけでどんな味がして、どんな成分を含んでいるか感じ取れるんだ」「だからそいつが正確に機能するようにって、いつも汚れを気にしてたのか…」

 ゴミや残飯、それに時には動物の糞を主食にしていると思われているのは心外だねってワンダーは言った。タンパク質と糖分と水分さえあれば勿論生きてはいけるけど、それは君たち人間が勝手に決めつけたハエに対する悪意に満ちた固定概念だってね。人間と同じでハエにだってそれぞれ好みがあるからって。つまり甘党や辛党、肉好きなグルメな食通もヴィーガンスタイルのハエだって実際多くいるんだってよ。

 

「取り引きの詳細を聞かせてもらおうか…」


「ところで、実は我々の選ばれた仲間たちが昔から君たち人間と手を組んで色々と共同研究をしている事は知っているかな? 数多の成果はその後に幾つかのノーベル賞にも繋がっているけど…」と何だかどこぞの大学で特別授業をする教授みたいな口調でワンダーが言った。彼らの貴重な遺伝子データを人間に提供する事で、睡眠や体内時計の不思議の解明や、たった一個の遺伝子が生物の性質や行動まで変化させてしまうなんて事まで色々と分かって来たんだってさ。夜通し研究に参加した奴なんかは、コーヒー飲み過ぎて不眠症になったくらいだって。

 驚いた事に最近じゃ認知症の発症メカニズムを突き止めて、更にその治療薬の開発研究にも参加しているって言うじゃないか。詳しい話しは何度聞いても全く理解できなかったけど、とにかくさ、私のハエに対する認識はワンダー教授のお陰で180度変わったね。

 それからもう一つ、研究への彼らの献身の裏に潜む悲しいまでの現実も聞いちゃったんだ。1ヶ月足らずのハエの寿命、共同研究に参加する一世代にかかる時間は僅か2週間で、そのサイクルの短さが皮肉な事に人間の遺伝子研究を加速度的に発展させて来た現実があるんだってさ。つまり何世代にも渡っての観察が驚くほど容易で安価だからさ、ひいお爺ちゃんのそのまたお爺ちゃんのお爺ちゃんから一族揃って日夜研究に参加して貢献しているって感じなんだよ。

 それから例えばさ、ショウジョウバエの頭、胸、腹といった体節構造を作るのに必要な一群の遺伝子に共通の短いDNA配列(ホメオボックス)は人間を含めた脊椎動物にも見つかっていて、進化の過程にある生物間で共通の体づくりの仕組みがある事が判明したんだって。ホメオボックス以外にも種の違いを乗り越えた共通の仕組みが次々と発見されているからさ、ハエの遺伝子データは人類の不思議を探る様々な貴重な研究に加速度的に光を当て続けているんだよ。

 そんな彼らの貢献に、私たちは一体どれほどのお返しをしているんだろうね。せいぜい飛んで来たハエを潰すのを途中で諦めるくらいが関の山なんじゃないかな。そんな事で本当にいいのかな。だからさ、気のいい彼らが何世代にも渡って甘んじて来た使い捨ての人生に嫌気がさしてクーデターでも起こす前にさ、私が何とか一肌脱がないといけないんじゃないかなって思ったんだよ。


「君の世代で研究は終わるかな?」〜個人用危険察知曲線〜


 そう言えば、彼らの超人的な察知能力や反射神経を、もっと有効に何か生かせないかなって思ったんだ。ワンダーが私に持ちかけたシークレットサービス的な個人用セキュリティーシステムをさ、私をモルモットに使ったしっかりとした実証実験を重ねてからさ。その後にサブスク的な事業展開を目指してみるのも悪くないかなって考え始めているんだよ。研究室に缶詰になっている彼らの生活だって少しは自由になるかも知れないからね。

 それにさ、見た目にはハエのたかった老人にしか見えないに日常の風景が一変するかも知れないじゃないか。あ、あの人、見て見て、「FLY THE WONDER 」に登録してるんじゃない?って感じでさ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?