自分は処方箋をもらう権利なんてないし、人一倍に性格がだらしないだけかも…という不安の先
再び、通院
前回の「いつも意識散漫、頭がとっちらかっている、頭の中に教授がいる」といった内容を書いたのですが、あまりにも生活と仕事に支障が出てしまったので、再度、通院を始めました。
そもそもは機能不全家庭がバックボーンにある抑うつと、それにともなった社会不安障害に長年悩まされていたのですが、その治療が数年前にやっとひと段落して突出してつらかった部分が落ち着いたことで、今度は、ふと根本にあった自分自身に気がついてしまったようです。
なんで自分は人よりすごくだめな気がするんだろう…いや、なんでだめなんだろう。
忘れてはいけない予定のためにスマホのアラームをかけたのに、鳴ったアラームを消した瞬間にすっかり忘れてしまうし、大きな紙にメモをして持ち歩いていたのに、ゴミ箱を見た瞬間に「あ、ゴミ箱だ」と思って捨ててしまった瞬間、目の前にいた人の黒いスカートが素敵だったので似たものが買えないかショッピングサイトを開いて検索をしはじめてしまい、さっき自分が捨てた紙がメモだったこともすっかり忘れてしまう。
そして、数字やアルファベットへの強い苦手意識。特に数字で起こることが多いのですが、どうしても文字認識が難しいときがあります。数年、定期的に通っている駅の出口の番号はいまだに覚えられず、毎回グーグルで近い出口を検索します。そして、「あ、B3か」と思ってスマホを閉じた瞬間に、「あれ、A3だっけ? A4? B3…はなにかの本のサイズだったかな…」とわけがわからなくなるのです。
おそらく、A4は仕事でよく使う紙のサイズで、頭にこびりついているだけです。そういった、過去に記憶しているものが曖昧になって、それが今見たことなのか、過去に見たものだったのか、頭の中でごちゃごちゃになってしまいます。
極端にたとえると、「これは算数です」と言われたら「1+1=3」は間違っていると当然のように分かるのですが、計算式だと意識していないと、「1」と「+」と「1」と「=」と「3」という文字がある、以上。…と認識してしまったりします。計算があっている/間違っているという発想が思い浮かばないのです。もちろん、算数としての式だと知ってはいるので、指摘されると驚きます。なぜ計算式だと気づかなかったのか? 自分で自分にびっくりします。
「なぜ気づかなかったんだろうね」とびっくりしながら会話をしているのに、頭の中では、「今日の帰り道に本屋さんに行って週プロ買わなきゃ」「あした〜今日よりも好きになれる〜(さっきスーパーの有線で流れていた曲が倍速のスピードで流れ続ける)」「あー、あのメール返信したんだっけ」「コピー機がつまった音がしてるけど、大丈夫かな」「申し訳ないな、呆れてるんだろうな、この前もこういうことあったよな、あの時はたしか…」など、同時に思考があちこちに飛び回ります。なんだか、分散してしまって、なにごとも15%くらいの自分しかいないような気がします。
その結果、「あれ、なんの話しをしていたんだっけ。」とまた聞くことになります。
ほんとうに、なんで、自分は人よりだめなのだろう。
頭がいつも言葉のゴミ屋敷状態
そんな風に思考がとっちらかっているので、頭の中はいつも言葉のゴミ屋敷のような状態です。
順番に記録をしておくノートや、エピソードごとに整理をしておく引き出しがなくて、どこにも片付けられないまま散らかっている言葉や感情や思考。必要になったときには、どこにあるのか、それとも邪魔になって捨ててしまったのか、それもわからないままただ慌てて探し続ける(もしくは思い出そうとし続ける)。その作業はとても消耗します。
どんなに気をつけても、気をつけようとしていたことも忘れてしまう。
家族と電車に乗っていたときのこと、「いま、一瞬、すごい家が見えた!」と言われました。そう。言われたことを耳では知っていたのですが、わたしの頭の中は常に、とっちらかった思考の大会議状態なので、相手が発言をしてからそれが自分の頭の理解する順番にくるまでに時間がかかることがあります。
次の駅につくころにやっと順番がきて、「えっ、どんな家?」と聞きました。わたしの様子に慣れている家族はなにごともなかったかのように、「あのね」とにこにこ普通に対応してくれますが、この数分、待ってくれていたのです。にこにこと話しを続けてくれる笑顔を見ていたら、急に悲しくなってしまいました。
大事な用を忘れてしまうことも、何度チェックをしようとしても間違いの存在の認識ができないことも、思考の順番がめちゃくちゃになることも、頭の中で言葉や音楽が轟音で鳴り続けることも、もうぜんぶ限界だ。いい加減、自分に疲れ果ててしまった。
そして、「もう、なにが無理なのかもわからないです」と再通院が始まりました。
医療控除を受けるための診断書に書かれたのは「注意欠陥/多動性障害」。悩みを話すごとに、おそらくそうだろうなという自覚はあったのですが、ここまで気持ちが限界になるまで通院を悩んでいたのは、理由があります。
自分にはつらいと言う権利があるのか、わからなかったのです。
みんなはちゃんと大変だけど、自分はだらしないだけかも
同じような症状の人の話しを聞くと、みんな大変そうです。共感しつつも、みんな人生と生活がうまくいくといいなと思うし、心配にもなります。みんなはちゃんと大変だし頑張っているし困っている、だから通院をする意味があるし薬を飲む権利もある。
だけどわたしの場合はどうだろう。ただ、人一倍に性格がだらしないせいかもしれない。そうだったら申し訳ないし、つらいだなんてとても言えない。
そうやって、自分の困っているレベルに疑問をいだいてしまいます。
「みんなは大変だけど、わたしはできることすら怠けてしていないだけなのでは」「みんなは大変だけど、わたしはたいへんがっているだけなのでは」「みんなは大変だけど、わたしは困っているふりでサボりたいだけなのでは」確かにものすごく毎日困って悩んでいたはずなのに、つい、自分にはそう思ってしまうのです。
困り具合は数値化できません。
性格や思考を調べるためのチェック表だって白紙です。なぜなら、わからないから。
自分の性格が、自分が思っているだけで現実はそんなことないのかもしれない、と心配なのです。だって、元気な性格が必要な場所ではそれなりに必要なレベルの元気な人になれるし、落ち込みやすいと思っていても、他の人はもっと傷ついて落ち込みやすくて自分なんてたいしたことないのかもしれないし、自分のことなんてなにもわかりません。いや、もしくは、「基準値がわからない」のかもしれません。
頭が痛くても、他の人はもっと痛いかもしれない。困っていても、ほんとうの「困っている」というのはもっとたいへんなことを指すのかもしれない。それを永久に考え続けて、なにを言ったら許されるかがわからなくなります。
精神的なものも、体重計や血圧計のように、自分の意思とは関係なく自動で数値化されればいいのに。
「つらいレベル80%、はい、十分たいへんなので通院の値に達していますよ、安心して通ってくださいね」なんて言われたい、そうしたら自分のことも許せるのに。
白紙のチェック表を見ながら、息がつまりました。
「わたし、処方箋なんてもらう権利あるんでしょうか」
書類をうけとりながら、診察室で声に出てしまいました。
「あるある、ありますよー」先生はびっくりたように目を見開き、わたしのほうを見て言いました。「これを受付に出して、それから保健センターに持っていってね」そう言われて受け取った苦手な書類。どうせ読んでもわからないし、今の精神状態で何度も確認しながら書くのつらいなぁと思っていたら、必要項目はもちろん、わたしの名前や住所欄も全て埋まっていて、わたし自身は受付の人と一緒に、指差し確認をするだけになっていました。
人の優しさを受け止めるために
それから2週間経ちますが、今もまだ、自分は処方をもらう権利があるのだろうか、という不安が残っています。
それを言ったら、「それわかる」と言ってくれる人がたくさんいました。みんながそれぞれお互いに、みんなは大変と認め合っている。そして自分だけは「自分がだめだからかも」なんて思ってしまう。人のことなら軽々と認められるのに。
その落差を考えると笑ってしまいそうです。
わたしたちは人に起こったことならば怒ったり、悲しんだり、心配をすることができます。そして、他人のことならばすぐに認めることができます。失敗をしても、「そういうのあるよね、でも頑張ってるじゃん」と。
それは反面、「なのに自分は頑張ってないから失敗する権利はない」という気持ちに結びつきます。自分に対してはすぐ自業自得と思ってしまう。
あるいは、人からそう言ってもらう場面になっても、「全然頑張ってないよ、なにも頑張れなかったんです、本当に自分はだめです」なんて言ってしまう。
どうやら、人の優しさを受け取るには、心にすこしの余裕が必要のようです。今は、自分に優しくしてあげるというところまでは、とてもたどり着けそうにありません。それならばせめて、人の優しさを優しさとして受け止めることくらいできるようになりたい。
そのためには、こうして自分に似た人の存在や気持ちを知り続けることがいいような気がします。その積み重ねのうちに、つい卑下しがちな自分自身の扱い方もいつか変わっていけるでしょうか。
(※2019.6.23「TABLO」に掲載された文章に加筆修正をしたものです)