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釜ヶ崎のおっちゃんとわたしが終わらせないでいる日常

ドヤ街で初めて手に入れたあだ名

 これは数年前の終戦記念日翌日の出来事です。

 わたしはとある"おっちゃん"がどうしても行きたいと言っていた土地のことを何年も探していました。(そのおっちゃんは「あおさん」と名乗っていて、わたしも「あおさん」と呼んでいるので、今後は表記を「あおさん」とします)

 あおさんは、大阪の西成・釜ヶ崎で出会った友人です。

 初めて会ったときに、「成宮アイコ」というわたしの名前を見たあおさんは、「俺は横文字が苦手だから」と照れながらわたしのことを「あっちゃん」と呼びました。アイコってカタカナで書いているだけで横文字じゃないんだけどな、と思ったのですが、学校にあまり行っていなかったわたしはあだ名の存在に憧れていたので、とにかく初めて手に入れたあだ名がやけに嬉しかったのを覚えています。

 毎年、夏になると大阪から東京に遊びに来るあおさんはたびたび、「田無市にあった陸軍自動車学校の跡地について知っている人はいないかな?」と言っていました。ご両親の思い出の土地なのだそうです。

 いくどとなくその話題が出るので気になってはいたのですが、検索をしてもなかなか情報が出てきません。わたしの周りの人も聞いたことがなく、あおさんから田無市の話しが出るたびに、夏の心残りとして気持ちのはじがチクチクとしていました。

おかんもこの景色を見てたんかいな

 そしてまた夏が来ました。

 その夏はちょうど戦後70年、国会は安保法制でもめていました。

 人々が声をあげるテレビを見ながら、わたしは急に、「この夏のうちにどうしてもあおさんの探している場所見つけて連れて行かねば」と思いました。今年、その場所に一緒に行かなくちゃいけない。なぜかそう思っていてもたってもいられなかったのです。

 あおさんは今はまだ元気だけれど、ずっとこのまま想いを聞いているだけじゃ後悔が残ってしまう。そう。切羽詰まったような気持ちになったのです。

 今年、絶対に探すから。そう伝えたはいいけれど、結局、あおさんと待ち合わせをする当日になっても、なんの情報も見つからないままでした。とりあえず、わたしたちは田無駅にいくことにしました。駅についたら図書館・お寺・神社の順番に昔の話を聞いてまわることにしよう、と決めて。

 田無駅に向かっている電車の中、あおさんは窓の外を眺めながら嬉しそうにつぶやきました。

 「おかんもこの景色を見てたんかいな、文字が読めないのにようたどり着いたなぁ。」

 その言葉を聞いて、絶対に見つけてあげたいと思ったと同時に、なぜかちょっとだけホームシックになってお母さんのことを思い出しました。

不鮮明なモノクロ写真の裏に見つけた文字

 田無駅につき、図書館司書の方に郷土資料について聞くと、「陸軍について…なんだか聞いたことはありますけどね、でもそれって、夏にありがちな怪談話としてなんですよね。」申し訳なさそうな顔で、だんだんと小声になりながら答えてくれました。

 それでも蔵書の中からいろいろな文字で検索を続けます。しかし、やはり何も手がかりはつかめず。

 話が長引いているわたしたちを心配して、別の司書の方も加わってくれました。

 「世田谷とか…多摩市のほうにも跡地があるらしいですけど、タマシじゃなくてタナシなんですよね?」

 あおさんは少し弱気になっていました。

 「もしかして聞き間違いかもしらんけどなぁ、なにせもう本人たちもいないし聞けないから」

 そんなやりとりを隣で見ていたわたしは、手のひらにじわっと汗がでる感覚がしました。見つからないかもしれない覚悟で来てはいるけれど、見つけないわけにはいかないんだ。誰のせいでもないのに、焦りでイライラした顔になっていたと思います。

 郷土資料専門の所で調べてもらうと何かわかるかも、と案内されて図書館の二階へ向かいました。その部屋は四方を資料の本棚でかこまれていて、なんだかものものしい雰囲気でした。

 過去の地図や田無の歴史資料を出してもらい、どんどん過去へ過去へと地図表をさかのぼりました。50年前、もっともっと、60年前、いやもっと、70年前。

 同じ地形のまま、田んぼだらけになった70年前の地図のページをめくります。その中から大きな土地、白い場所を探しては確認。施設はどこにあったんだろう、広い場所、広い場所…。

 「田無って広かったんですね、これはたいへんだなー」

 手がかりが見つからない気持ちをごまかすために、明るく言います。

「そういえば向こうの駅は一度名前が変わったんですよね、いまはひばりが丘なんですけど、昔は田無町駅だったんです」

 「田無町…?」

 ひばりヶ丘は昔は田無町駅だった。

 初めて聞く内容です。

 「そうなんですよ、昔、田無の範囲って広かったんです。もしかして、タナシではなくてタナシマチも「田無」と言っていたかもしれないですね」

 そこでわたしたちは「田無 陸軍自動車学校」ではなくて、「ひばりが丘 陸軍自動車学校」で調べることにしました。

 急いでスマホで検索をしたところ、1件だけその情報が詳しく書かれているページを発見しました。同じく、司書さんも当時のひばりが丘の新聞記事から「陸軍自動車学校」のコピー記事を発見。そこには鉛筆書きで "現在のひばりが丘にあった" と記載されていました。

 あおさんは新聞の日付を見て軽く声をあげました。

 奇しくもその年に、あおさんのお父さんは「陸軍自動車学校」に入っていたらしいのです。記事には大勢の兵士がずらっと並んだ写真がひきで写されていました。きっとそのどこかにお父さんはいるのです。

 あおさんは老眼鏡をかけて、ひとりひとり指で追って確認をしていきます。古い資料はとても不鮮明で、写真は荒いドットでジャギジャギです。「とてもわからんなぁ」と笑うあおさん。結局読み取ることはできませんでした。資料はコピーをさせてもらい、あおさんはそれを大切そうにして本にはさみました。

買ってもらったサーティーワンアイスクリーム

 とにかく現地へ行ってみよう、と、急いでタクシーでひばりが丘へ向かいます。

 駅の前で降ろしてもらい、わたしとあおさんは歩き始めました。大きなマンション、きれいに整備された道。ミンミンジリジリと大きな音で鳴くセミは、あまりにもうるさくて「うるさいよ!」と笑い出しそうです。

 知らない名前の駅ビルの前では、インストアライブの最中でした。ギターとボーカルと声援をおくる女の子たち。歌い終わると同時に、「来月、ワンマンライブを開催します!」と告知をはじめました。女の子たちは歓声をあげます。

 いまを生きているわたしたちは、当たり前のように未来の約束がされます。ファンの女の子たちも、バンドのふたりも、通り過ぎただけのわたしも、未来は当たり前にあると思っています。

 「あっちゃん、アイス食べるか?」

 あおさんはにこにことしながら、サーティーワンの前でわたしに声をかけました。

 なんだか、なにかに気がつきそうなざわめきを感じたので、いつもの倍くらい大げさに喜びながら店内に入り、ホッピングシャワーとキャラメルリボンを買ってもらいました。初めて訪れたひばりヶ丘の駅前を見渡します。だいすきなサーティーワンアイスクリームの看板の蛍光ピンクはいつも同じ。どの町に言っても同じ蛍光ピンクです。

 家の近くにもあるチェーン店の居酒屋さん、物珍しい私鉄の模様、知らないバンドのライブ。平和で代わり映えのない、見たすかぎり広がる日常の風景。どの街でも、どの駅でも同じ、見慣れた景色です。

 あおさんのお父さんとお母さんは、SNSやLINEのない時代、文字が読めないから手紙もかけないならば、また離れるときはどのくらい不安だったでしょうか。いまの風景はこんな風になっているんですよ。いつかの場所は、いま、こんな風に日常が広がっているんですよ。みんなが自分の生活を暮らしているんですよ。当たり前のように未来の約束がされて、アイスを食べながら当たり前のようにそれを聞いているんです。

 こんなにもです、こんなにもですよ。

 このコラムの冒頭で友人と書きましたが、わたしたちはちょっといびつな親子のようでもありました。

 あおさんは、内向的なわたしの性格をいつも心配していて、わたしは、時々お酒を飲みすぎるあおさんの体調を心配していました。あおさんのご両親には会ったことがないけれど、頭の中で話しかけては泣きたくなるような気持ちを色どりどりのホッピングシャワーでおさえつけました。

 あおさんは嬉しそうにわたしをながめます。

 「母親のお墓に行ったら、東京に四女ができたって教えたるわ」

つい後回しにしてしまう脆いもの

 日常は簡単に壊せます。だれかの人生だって簡単に壊せます。それは戦争というものでも、ほんの小さな悪意でも同じことです。たった一言の悪口で世界が終わって、学校やバイトや仕事に行けなくなってしまう。

 だけど、頑張って続けて行くこともできるのです。

 「頑張って」というのは、きっと思いやりや優しさというのは人間にはあらかじめ備え付けられているのだと思いたいけれど、それは意識をしていないとつい後回しにしてしまうような脆いものでもあると思うからです。

 目の前で人が傷ついたり困ったりしているところは見たくない、この町のように平和な光景でなければアイスはおいしく感じないだろうし、できれば誰もそれなりに幸せにいてほしい。それでもときどき、自分のめんどくさい感情に負けて、困っている人の存在を見ないふりしてしまったり、嫌いな人への意地悪な気持ちが湧き出そうになります。

 最近知ったのですが、このサーティーワンアイスクリームは、閉店をしたそうです。

 見慣れた蛍光ピンクのあの看板は、わたしがいま住んでいる街からもなくなってしまいました。隣の駅まで行かなくてはいけません。当たり前のことなんてないのです。

 でも、それでもわたしはまだ、未来は当たり前にあると思っていて、数日後の約束をカレンダーアプリに書き込みます。10年後も20年後も、ずっとそうであればいいと願いながら。

(※2019.09.08「TABLO」に掲載された文章に加筆修正をしたものです)