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第1話 「五回」 妻の呟きが自分に向けられた言葉なのだと、初めは気づかなかった。 新聞から目を上げる。はす向かいに座った妻がじっとこちらを見ていた。つけっぱなしのテレビからはニュースが流れ、ここ数年に起こった、幼女を狙う犯罪の増加を伝えている。 「五回」 妻はこわばった顔のまま口を開き、繰り返した。さっきの言葉も自分に向けられたものだったと知ったが、意味はわからない。仕方がなく、黙ったまま次の言葉を待つ。 妻はため息をつき、目を伏せた。片方ずつの頬骨と口
第2話 次の日の朝、妻はいつもの様子でテーブルの上におかずを並べていた。座って新聞を広げると、 「さっき、ひろみから電話がありましたよ。今日、ハナちゃん連れて遊びにくるって」 妻が言った。口調はそっけないが、機嫌が良いのがわかる。 長女のひろみは歩いて二十分ほどの距離にあるマンションに住んでいる。孫の葉菜は三歳で、春から幼稚園に入る。 朝食を終えて畳の部屋で詰将棋をしていると、外から門扉を開ける音がかすかに響いた。玄関に飛んでいった妻の「ハナちゃーん。
第3話 「五回よ。一日たったの五回。一日中家にいるのに」 「五回はないわよねー」 リビングから妻と娘の声が響いてきた。最初は小声で始まったはずの妻と娘の会話は途中から大きくなり、廊下やガラス障子に隔てられた私のところまで届いてくる。 「そうでしょ。それだって、こっちが投げたのに対する相槌だけ」 「九官鳥だってもっとしゃべるわね」 「あー毎日つまらない。話し相手にもならないんだもの」 「いいじゃないの、静かでうらやましいわよ。こっちは毎日がバタバタよ」 詰将棋
第4話 将棋盤の前で腕を組み、目を瞑る。広縁の白っぽい板に照り返された光が、瞼の裏までまぶしく届いた。 目を開ける。西に傾きかけた日が古い畳の毛羽立ちを輝かせている。 布が触れ合う音がかすかに聞こえたような気がして、振り返ると孫がすぐそばに立っていた。 「ハナ」 驚いて背筋を伸ばした。ガラス障子が細く開いている。 「どうした」 孫はじっと将棋盤を見つめている。私もまたその目線を追って、駒に目を戻した。 突然、ひらめきが走った。手を伸ばして駒を動かす
第5話 目が覚めたら、昼近くになっていた。ぼんやりとした頭のまま着替えてダイニングへ行くと、 「あら起きたの。今、様子を見に行こうかと思ってたのよ。具合はどうですか」 台所に立つ妻が振り返った。 「うん」 返事をして気づいた。声が出せている。 「大丈夫なの。ごはんは食べられますか」 「うん」 ほっとした。昨日のあれは一体なんだったのだろうか。わからないが、治ったのならそれでいい。 食事を終え、新聞を広げた。妻は買い物へ出かけ、私は和室で詰将棋をした。夕
第6話 次の日はいつもより早く身支度を整え、新聞を広げながら妻を待ち構えた。 「あら早いのね。ごはん、ちょっと待ってて」 妻の言葉に、私はいくぶん緊張しながら、 「うん」 と答えた。新聞の文字がちっとも頭に入ってこない。 普段と同じように過ごそうと思ったが、詰将棋も集中できないのでやめてしまった。 私が恐れつつも待っていた瞬間は、夕飯の時にやってきた。 つけっぱなしのテレビでは、旅番組が流れていた。空撮された一面の雪景色に、妻がため息をつく。 「
第7話 次の日、私は日が昇っても布団から出なかった。 一日に話せるのは五回しかないのだから、その回数を節約する必要がある。いっそ病気だということにしてこのままずっと寝ていようか。しかし九時過ぎくらいに、妻が寝室にやってきた。 「どうしたの。具合が悪いの」 顔を下にして、枕につっぷしたまま動かないでいると、妻は私の肩に手をかけて揺り動かした。 「なによ、寝たふりなんかして」 なぜわかったのだろう。妻の声が尖る。 「心配してるんだから、なにか言って下さい
第8話 次の日は普段通りにダイニングに向かった。毎日仮病を使うわけにもいかない。 「おはよう。今日はどうですか」 声をかけられ、私は黙ったまま頷いて見せた。無駄な会話を省く作戦のつもりだったが、妻はむっとしたように口を曲げる。 「ごはんは食べられるの」 妻の声が尖った。無言のままもう一度頷くと、今度は両目がつり上げられた。 ご飯を盛った茶碗が私の目の前に置かれる。ゴトンと乱暴な音で、妻の機嫌が悪いことがわかる。 黙ったまま座っていると、妻はますます乱
第9話 次の日の昼、私は図書館に隣接する広場のベンチに座っていた。平日だからか、それとも寒いせいか、子供の恰好の遊び場である広い敷地には誰の姿もない。 妻は今朝になっても機嫌が戻っていない様子だった。こちらから「おはよう」と声をかけてみたが返事はなく、食事の間もずっと黙っている。 食べ終えると、私は「出かけてくる」と言い置いて家を出た。図書館は歩いて十分ほどの場所にある。 ここで夕方まで過ごせば、不必要な会話は避けられるし、妻の機嫌を損ねることもない。無
第10話 音を立てないようにそっと玄関を開け、細い隙間から滑り込んだ。リビングからテレビの音がする。 足音がしないように廊下を進み、自室へ逃げ込む。息をひそめてじっとしていると、窓の外が薄暗くなってきた。灯りをつけるわけにいかず、暗く静かな部屋で、なにかのモーター音に耳を澄ませる。 ふと古い記憶が脳裏に浮かんだ。子供の頃、祖父の形見の懐中時計を勝手に持ち出して落とし、表面のガラスに傷をつけてしまった。 叱られるのが怖くて、押し入れに隠れた。寡黙な父がどのよ
第11話 その夜、夢を見た。 冬の寒い夜だった。冷たい廊下に正座する母の隣で、裸足の足をこすり合わせる。 玄関が開き、父の姿が現れた。黙ったまま差し出される外套とカバンを母が受け取る。 「お父さん、見て! 僕、学校の将棋大会で優勝したんだよ」 小さな賞状を差し出した。教科書の間に挟み、折れないように大切に持って帰ってきたものだ。 しかし父は一瞥もせず私の前を横切り、廊下の奥に向かって大股に歩いて行った。母が追いかける後ろから私もついていく。 「僕がク
第12話 口がきけなくなったが、それについて大きな問題はなかった。台所には妻の姿がなく、二階にある、かつての子供部屋に閉じこもっているようだ。私を避けているのだろう。 腹が減ってダイニングへ行くと、いつの間にかラップをかぶった一人分の食事が用意されている。 階段の下から二階を見上げた。筆談を試みようかとペンを取ってみたが、言葉がなにも浮かんでこなかった。 詰将棋をする気分になれず、畳の部屋でぼんやりと庭を眺めて時間を過ごす。静まり返った家を突如震わせたの
第13話 信号待ちで足を止めた。息を整えるつもりが、強く弾んで止まらなくなった。横隔膜が震えて嗚咽のような音を漏らし、心臓はますます慌てて早鐘を打つ。 膝に手を置き、肩を上下させていると、向こうから来た人たちがちらりと視線を投げかけながら通り過ぎていった。 信号が青になる。渡り終えた先にある陸橋を、重い脚を蹴り上げるようにして駆けあがった。段に足を引っかけて転びかけたところを、かろうじて手すりにしがみつく。 上まで登ると、対岸のマンションが現れた。前の通
第14話 マンションに隣接した公園はさほど広くなく、入り口はひとつしか無かった。遊具はいくつかあるが、滑り台とブランコと鉄棒、それから砂場くらいしかない。小さな子供がずっと隠れていられるような場所があるようには思えなかった。 滑り台の裏に回り込んでみたが、そこに孫の姿はない。ベンチや水飲み場の奥には何本かの木が植わっており、その先へ続く小径を水色の金網がふさいでいた。取り壊しが決まっている公営団地が見える。 『あの団地、ハナが小学生になる前には取り壊される予定