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【小説】コトノハのこと 第4話

   第4話

 将棋盤の前で腕を組み、目を瞑る。広縁の白っぽい板に照り返された光が、瞼の裏までまぶしく届いた。

 目を開ける。西に傾きかけた日が古い畳の毛羽立ちを輝かせている。
 布が触れ合う音がかすかに聞こえたような気がして、振り返ると孫がすぐそばに立っていた。

「ハナ」
 驚いて背筋を伸ばした。ガラス障子が細く開いている。

「どうした」
 孫はじっと将棋盤を見つめている。私もまたその目線を追って、駒に目を戻した。

 突然、ひらめきが走った。手を伸ばして駒を動かす。桂馬、銀、角……そして王手。手元の解答と照らし合わせ、正解していることを確認した。

 孫を振り返る。孫も、じっと私を見ていた。小さくうなずくと、孫もそれに応えるようにかすかに顎を引く。
 私が口元にきゅっと力を籠めると、孫も左右の口の端を寄せた。笑顔に見えなくもない。

 床のきしむ音に続いてガラス障子が大きく開き、娘が部屋に入ってきた。
「あ、ここにいた。ハナ、帰るわよ」
「ハナちゃん。おじいちゃんと一緒にいたの」
 続いて妻が顔をのぞかせる。孫はいつもの無表情に戻っていた。

「将棋なんて見たってわからないでしょ。ホラ、おじいちゃんにバイバイしなさい」
 促されるも、孫はじっと黙ったままだ。

「もう、ちゃんと挨拶できないと幼稚園に行けないよ!」
 娘の声が尖った。妻が横からとりなすように、

「おじいちゃんの顔が怖いからよ。ねえ、ハナちゃん」
 そう言って私を睨んだ。つられるようにこちらに目を向けた孫に、

『じゃあな、ハナ。またおいで』

 そうかけたはずの言葉は、私の口から出てこなかった。声がまるで喉の奥で溶けたかのように、跡形もなく消えてしまっているのだった。咳ばらいをするも、痰さえも絡んでいない喉の奥からは、かすれた空気が漏れただけだった。

「どうしたの、あなた。ハナちゃんがびっくりするじゃないの」
 妻が気味悪そうに私を見る。娘も眉をひそめた。

「お父さん、大丈夫。気分でも悪いの」
 私は口を閉じ、首を横に振った。背中にじっとりと汗を掻いていたが、妻や娘に騒がれたくなかった。

 二人は顔を見合わせたが、娘は慌てて時計に目をやり、

「やば。もう帰らないと。じゃあね、お父さん」

 孫の背を押しながら玄関へ向かう。和室を出る前に、孫がちらりとこちらを振り返ったが、すぐに廊下の向こうに消えた。

 妻が二人を追いかける。誰もいなくなった和室で私はそっと口を開き、「あー」と声を出そうとした。だがなにも出てこない。

 急いで自室へ向かった。扉を閉め、下腹に思い切り力を込める。しかし口からはかすれた空気しか出てこない。「どうして」という呟きは、ほぉ、というため息のようなものにしかならなかった。

 その日は夕飯も食べずに布団に包まった。妻が心配して何度か声をかけにきたが、寝たふりをしてやりすごした。

 夜中に目が覚めるたび、何度か布団の中で声を出そうと試みたが、やはりなにも出てこなかった。

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