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【小説】コトノハのこと 第1話

   第1話

「五回」
 妻の呟きが自分に向けられた言葉なのだと、初めは気づかなかった。

 新聞から目を上げる。はす向かいに座った妻がじっとこちらを見ていた。つけっぱなしのテレビからはニュースが流れ、ここ数年に起こった、幼女を狙う犯罪の増加を伝えている。

「五回」
 妻はこわばった顔のまま口を開き、繰り返した。さっきの言葉も自分に向けられたものだったと知ったが、意味はわからない。仕方がなく、黙ったまま次の言葉を待つ。

 妻はため息をつき、目を伏せた。片方ずつの頬骨と口の端を緩ませ、テーブルの端にある調味料を横目で見ながら、

「あなたが今日一日でしゃべった回数。たったの五回」

 と呟き、そこで言葉を切った。そのまま口をへの字に曲げたが、話が終わったわけではないようだ。新聞の続きを読むわけにもいかず、黙ったまま次の言葉を待った。

「朝、わたしが『おはよう』って声をかけたのに対して『ああ』。『お昼はお蕎麦でいい?』に対して『うん』。『買い物行ってきますね』に『ああ』。『夕ご飯よ』に『うん』。最後はなんだったっけ」

 言いながら妻が指を折る。
「……そうだ、『お風呂沸いてますよ』に対して『ああ』」

 妻がなにを言わんとしているのかわからないが、機嫌があまり良くないことだけは伝わった。

「一日に五回って。九官鳥でももっとしゃべりますよ。あなた、私が死んで一人になっても、ちっとも寂しくなんてないんでしょうね」

 妻は時に、まったく論理的ではなくなる。私が無口であることから、妻に先立たれても平気であることには結びつかない。ついでに、九官鳥は単に教えられた言葉を真似しているだけだ。
 しかし妻の話は止まることなく先へ進んでいく。

「蟻川さんのところはね、ご夫婦でゴルフに行くんですって。この前、自慢されちゃったわよ。二人で海外旅行に行ってきたとかって。腹が立ったから、わたし言ってやりましたよ。うちなんて、夫と旅行に行くくらいなら、一人で行った方がましよって」

 私は混乱した。妻がゴルフに興味があるとは知らなかった。一人で旅行に行きたいというなら、もちろんそうすればよいと思う。

「まるで手応えってものがないんだもの。つまんない!」
 つまらない、と言われても返す言葉がない。申し訳ない気持ちで黙っていた。しかし妻はますますイライラした様子で、

「ああ腹が立つ。なにか面白いことくらい言えないの」
 面白いこと? 頭の中に、テレビで見かけるお笑い芸人の姿が浮かぶ。私が、なにか面白いことを言う? 今この場で?

 妻は返事も待たず、
「もういいわ。邪魔してすみませんでした」
 と言い残し、さっと立ち上がって部屋を出ていった。私はぽつんと居間に一人残されてしまう。

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